【マジか!?】康熙帝の末っ子、実は兄・雍正帝に溺愛されてた!? 波瀾万丈な人生を大暴露!

清朝の歴史に名を刻む康熙帝。彼には数多くの子供たちがいましたが、その中でも特に異彩を放つ人物がいました。それが、康熙帝の末っ子である允祕(いんぴ)。なんと17歳という若さで親王に封じられ、あの鉄の意志を持つ雍正帝から並々ならぬ寵愛を受けたというのです!

幼い頃に父を亡くし、若くして王位に就き、青年期には兄である雍正帝に愛され、成人してからは甥である乾隆帝に重用されるという、まさにドラマのような人生を送った允祕。彼はいったいどんな魅力を持っていたのでしょうか?そして、雍正帝や乾隆帝との間には、どんな秘密の関係があったのでしょうか?知られざる歴史の裏側を、一緒に覗いてみましょう!

康熙五十五年(1716年)五月十六日、紫禁城の奥深くで、一人の赤ん坊が産声を上げました。この子が、康熙帝の第二十四子、つまり事実上の末っ子である允祕です。高齢の康熙帝にとって、この小さな命は大きな喜びであり、帝王としての晩年に新たな活力を与えるかのようでした。

允祕の生母である陳氏は、康熙帝が晩年に寵愛した妃嬪の一人でした。後宮での正式な位は庶妃に過ぎませんでしたが、康熙帝の特別な寵愛を受けていました。陳氏は蘇州出身の美人で、八旗出身ではなく、漢人だった可能性が高いとされています。身分は平凡でしたが、その才能と美貌で康熙帝の心を捉えたのです。

康熙帝の晩年、陳氏は二人の息子を産みました。長男が允祕、そして次男の胤禐(いんき)は残念ながら夭折してしまいました。二人の息子の誕生は、陳氏の地位を確固たるものにし、数多くの妃嬪の中で頭角を現すきっかけとなりました。しかし、康熙帝は彼女の位を上げることはありませんでした。これは当時の清朝後宮では珍しいことではありません。康熙帝は後宮の位を頻繁に調整することを好まず、皇子を産んだ妃嬪であっても、必ずしも高い称号を得られるとは限らなかったのです。

允祕は紫禁城で幼少期を過ごしました。康熙帝の末っ子として、父から特別な愛情を受けたのは当然のことでした。康熙帝は高齢でしたが、時間を見つけては幼い息子と過ごしました。康熙六十年(1721年)、イタリア人画家のマテオ・リッパは、興味深い光景を目撃しています。承徳避暑山荘で、美しい貴婦人が湖畔に座っており、4、5歳の男の子が彼女に敬意を表していたのです。付き添いの宦官の説明によると、この貴婦人は皇帝の寵妃であり、その男の子は彼女の息子とのことでした。マテオ・リッパは直接名前を挙げていませんが、年齢から推測すると、この男の子は允祕であり、貴婦人は陳氏である可能性が高いでしょう。

しかし、運命は残酷なものです。允祕が6歳の時、康熙帝が崩御してしまったのです。幼い允祕にとって、これは計り知れない打撃でした。父の庇護を失い、彼の立場は一時的に危うくなりました。しかし、幸いなことに、新たに即位した雍正帝はこの幼い弟を深く憐れみ、冷遇することなく、むしろ特別な配慮をしました。雍正帝は、各位の母妃を尊封する詔を下し、その中で陳氏は皇考貴人として尊ばれ、150両の宮分を与えられました。この数字は、貴人と嬪の間であり、雍正帝が先帝の遺妃に対する敬意、あるいは息子を持つ妃嬪に対する特別な優遇措置として与えたものと考えられます。

しかし、不幸は再び訪れます。允祕が11歳の時、母である陳氏も亡くなってしまったのです。幼くして両親を失った允祕は、孤立無援の状態に陥りました。雍正帝と皇后の那拉氏は、この哀れな弟を放っておけず、自ら世話をすることを決意しました。雍正帝は允祕を咸福宮に住まわせ、皇子たちと一緒に勉強させることにしました。この時期、允祕は両親を失いましたが、兄と兄嫁の献身的な世話を受け、その後の成長のための強固な基盤を築いたのです。

このような特別な環境で育った允祕は、次第に並外れた気質を示すようになりました。性格は温和で謙虚であり、学問においても優れた才能を発揮しました。これらの特質は、雍正帝の寵愛を得るだけでなく、その後の人生を切り開くための道筋となったのです。成長するにつれて、允祕は自分の特別な立場と状況を認識し、複雑な宮廷環境で慎重に行動することを学び始めました。

雍正元年(1723年)、雍正帝は正式に即位しました。権力を握ったばかりの新皇帝として、雍正帝は多くの課題に直面しましたが、その中でも最も厄介なのは、兄弟たちとの関係をどのように処理するかでした。しかし、このような緊迫した政治的雰囲気の中で、雍正帝の幼い弟である允祕に対する態度は、驚くほど温和でした。

雍正三年(1725年)、允祕はわずか9歳でしたが、雍正帝は異例の措置として、先帝のために行われる祭祀活動への参加を許可しました。これは当時としては非常に稀なことで、通常は成人の皇子のみが、このような重要な儀式に参加する資格があったからです。雍正帝のこの決定は、允祕の身分を認めるだけでなく、この幼い弟に対する特別な配慮でもありました。

時間が経つにつれて、雍正帝の允祕に対する寵愛はますます明らかになりました。雍正五年(1727年)、雍正帝は朝廷を震撼させる決定を下しました。なんと、わずか11歳の允祕を親王に封じたのです!これは清朝の歴史上、極めて異例なことで、通常は成人の皇子、あるいは目覚ましい戦功を立てた功臣のみが、親王の称号を得ることができたからです。雍正帝のこの決定は、允祕に対する特別な感情を十分に表していました。

允祕がより良い教育を受けられるように、雍正帝は彼を皇子たちと一緒に勉強させることにしました。当時の清朝では、皇子の教育は極めて重要であり、通常は経験豊富な大臣が教師を務めていました。雍正帝が允祕をこのような学習環境に置いたのは、彼の学識を高めるだけでなく、将来の朝廷の重臣と良好な関係を築かせるためでもありました。

允祕が15歳になった年、雍正帝は彼のためにまた一つ大きなことをしました。それは、結婚相手を決めることです。雍正帝が允祕のために選んだ妻は、満洲正黄旗の名門出身である烏雅氏でした。彼女は品行方正で、教養のある貴族の女性でした。この結婚は、允祕の社会的地位を確固たるものにするだけでなく、その後の家庭生活のための強固な基盤を築くものでもありました。

雍正帝の允祕に対する寵愛は、これらの重大な決定だけでなく、日常生活の細部にまで表れていました。『清実録』によると、雍正帝は頻繁に允祕を食事に誘い、時には自ら箸で料理を取り分けてあげたそうです。宮廷では、このような親密な交流は極めて稀であり、雍正帝の允祕に対する特別な感情を十分に物語っていました。

雍正帝はまた、允祕を連れて一緒に出かけることも多く、彼に広い世界を見せようとしました。熱河行宮に向かう途中、雍正帝はわざわざ允祕に自分と同じ駕籠に乗ることを許可しました。これは当時としては非常に名誉なことでした。これらの経験は、允祕の視野を広げるだけでなく、帝王の日常生活をより深く理解させることにもつながりました。

しかし、雍正帝の允祕に対する寵愛は、決して無意味なものではありませんでした。彼は、この幼い弟を育成することで、朝廷にとって頼りになる助手を育てようとしていたのです。雍正帝は頻繁に朝廷の会議に允祕を傍聴させ、時には彼の意見を求めることもありました。これらの経験は、允祕が将来朝政に参加するための基礎を築きました。

雍正帝のこのようなやり方は、当時、一部から批判を浴びました。雍正帝が允祕を過度に寵愛することは、皇子たちの地位に影響を与える可能性があると考えられたのです。しかし、雍正帝は巧妙にこの関係のバランスを取りました。一方では允祕に特別な待遇を与えながら、他方では允祕の地位が皇子たちを超えることは決してないと明言したのです。このやり方は、允祕に配慮すると同時に、起こりうる政治的な紛争を回避するものでもありました。

雍正十三年(1735年)、雍正帝が崩御しました。在位中、彼は常に允祕に対して特別な愛情を持ち続けました。臨終の際にも、雍正帝はこの幼い弟のことを忘れませんでした。彼は遺詔の中で、新しい皇帝である乾隆帝に、允祕を大切にするように特別に言い残したのです。これは、雍正帝の允祕に対する深い愛情を十分に物語っていました。

雍正帝の允祕に対する特別な寵愛は、允祕の人生を変えただけでなく、清朝の政治構造に独特な色彩を添えました。雍正帝の育成の下、允祕は次第に落ち着きと慎重さを兼ね備えた王爺へと成長し、乾隆朝での円滑な発展のための基盤を築きました。同時に、雍正帝の允祕に対する態度は、後世の研究者が清朝の皇室関係を研究するための重要な事例となり、当時の政治生態を理解するための貴重な参考資料となっているのです。

雍正帝の崩御後、わずか25歳の弘暦(こうれき)が即位し、乾隆帝となりました。この若い皇帝にとって、叔父である允祕との関係をどのように処理するかは、厄介な問題でした。しかし、乾隆帝は允祕を疎遠にするどころか、父のやり方を引き継ぎ、引き続きこの叔父を重用したのです。

乾隆元年(1736年)、乾隆帝は正式に即位しました。即位の大典では、皇叔である允祕は重要な儀礼的な位置を与えられました。これは、允祕の地位を認めるだけでなく、乾隆帝が朝廷に対して、父の遺志を尊重し、この叔父を大切にするという態度を示すものでもありました。

乾隆朝の初期、允祕の政治的地位は急速に上昇しました。乾隆二年(1737年)、乾隆帝は允祕を議政大臣に任命しました。この役職は、実際の行政的な職務ではありませんでしたが、清朝の皇族が朝政に参加するための重要なルートでした。允祕は議政の過程で優れた才能を発揮し、彼の意見はしばしば乾隆帝に採用されました。

乾隆五年(1740年)、朝廷の注目を集める事件が起こりました。当時、内務府の管理が不十分であったため、宮中の倉庫の銀が不足していたのです。乾隆帝はこれに非常に不満を持ち、内務府の徹底的な調査を決定しました。この重要な時に、允祕は自ら志願し、内務府の督辦(とくばん)に就任しました。この役職は一見すると平凡に見えますが、実際には皇室の日常的な支出を管理しており、極めて重要かつデリケートな立場でした。

允祕は内務府での仕事で目覚ましい成果を上げました。彼は大胆に改革を行い、人員を整理し、無駄をなくし、内務府の財政状況を著しく改善しました。これは乾隆帝の称賛を得るだけでなく、朝廷の大臣たちに、この皇叔に対する認識を改めさせることにもなりました。

乾隆十年(1745年)、乾隆帝は南巡を決定しました。今回の南巡は、民情を視察するだけでなく、清朝の国力を示すためのものでもありました。この重要な旅程に、乾隆帝は特に允祕を同行させました。南巡の過程で、允祕は優れた才能を発揮しました。彼は乾隆帝の様々な政務を補佐するだけでなく、地方官との交流の中で高度な外交手腕を発揮しました。今回の南巡の成功により、乾隆帝は允祕をより信頼するようになりました。

乾隆十五年(1750年)、朝廷を震撼させる事件が起こりました。当時の軍機大臣である傅恒(ふこう)が、汚職と収賄で調査されたのです。この高位高官の大臣の失脚は、朝廷に少なからぬ衝撃を与えました。この重要な時に、乾隆帝は予期せぬ決定を下しました。彼は傅恒の後任として允祕を任命し、新たな軍機大臣としたのです。

軍機大臣は、清朝の最高レベルの行政官であり、国家の重要な政策決定に直接関与します。允祕がこの時期に軍機大臣に任命されたことは、乾隆帝が彼を深く信頼していることの証でした。軍機処での仕事において、允祕は卓越した能力を発揮しました。彼は日常の政務を秩序正しく処理するだけでなく、いくつかの重要な政策決定において独自の意見を述べました。

乾隆二十年(1755年)、清朝とジュンガル部の間で戦争が勃発しました。この戦争は、清朝が北西地域を統治する上で重要な意味を持っており、乾隆帝はこれを非常に重視していました。戦争中、允祕は軍機大臣として、多くの重要な政策決定の策定に関与しました。彼が提唱した戦略、例えば、後方支援の強化や軍隊の訓練改善などは、戦争の勝利に重要な役割を果たしました。

允祕は国家の重大事に関与するだけでなく、文化面でも貢献しました。乾隆帝は有名な文化皇帝であり、在位中に多くの大規模な文化事業を行いました。これらの事業において、允祕も重要な役割を果たしました。例えば、『四庫全書(しこぜんしょ)』の編纂過程において、允祕は総纂官(そうさんかん)の一人を務めました。彼は書目の選定に関与するだけでなく、多くの重要な古典を自ら検討しました。

乾隆二十五年(1760年)、允祕は40歳を過ぎました。高齢にもかかわらず、彼は旺盛な精力を維持し、朝廷のために尽力し続けました。この年、乾隆帝は特に允祕のために盛大な祝宴を開催しました。宴会で、乾隆帝は自ら允祕のために詩を書き、この叔父に対する感謝の気持ちを表しました。

しかし、年齢を重ねるにつれて、允祕は徐々に政治の舞台の中心から退いていきました。乾隆三十年(1765年)以降、允祕は徐々に手にした権力を手放し、より多くの精力を家庭生活と個人的な趣味に費やすようになりました。それでも、乾隆帝は頻繁に允祕を重要な朝会に招待し、彼の意見を求めました。

允祕の乾隆朝における政治生活は、彼の個人的な才能を示すだけでなく、清朝皇室内部の複雑な関係を反映したものでもありました。皇叔として、彼は自分の地位を維持しなければならない一方で、皇帝の猜疑心を招かないようにしなければなりませんでした。この過程で、允祕は高度な政治的知恵を発揮し、権力の渦の中でバランスを保つことに成功しました。彼の経験は、清朝中期の政治生態を理解するためのユニークな視点を提供してくれます。

允祕は政治の舞台で貢献するだけでなく、文化の分野でも重要な足跡を残しました。皇族の一員として、彼は幼い頃から良質な教育を受け、詩、書道、絵画に深い造詣を持っていました。乾隆朝において、允祕の文化的貢献は主に、詩の創作、書画芸術、文化事業への参加という3つの側面から見ることができます。

詩の創作において、允祕はまさに才能に恵まれていました。乾隆五年(1740年)、允祕は乾隆帝と一緒に詩会に参加しました。この詩会で、允祕は即興で『春日遊園』という詩を作りました。その中で「柳絮飛時花落日、鶯啼聲裡燕歸巢(柳の綿が舞い、花が散る夕暮れ、鶯の鳴き声の中に燕が巣に帰る)」という一節は、乾隆帝から「清新雅致,頗得春景之神(清らかで優雅、春の景色の神髄を得ている)」と称賛されました。この詩は、允祕の文学的才能を示すだけでなく、彼に乾隆帝の称賛をもたらすことにもなりました。

乾隆十年(1745年)、允祕は乾隆帝に随行して南巡しました。この旅で、彼は江南の風景を描いた多くの詩を作りました。その中でも、『蘇州城外』という詩は特に有名です。「姑蘇城外寒山寺、楓葉蕭蕭晚照時。不為鳴鐘歸未得、獨尋僧舍話禪機(姑蘇城外の寒山寺、楓の葉が蕭々と夕日に照らされる。鐘の音を聞いて帰ることができなくても、一人で僧舎を訪ねて禅の奥義を語り合う)」この詩は、蘇州の秋の景色を描写するだけでなく、作者の仏教への関心も垣間見え、允祕の多岐にわたる文化的素養を示しています。

詩の創作以外にも、允祕は書道と絵画においても優れた才能を持っていました。乾隆十五年(1750年)、允祕は『梅花図』を描きました。この絵は、淡い墨で梅の枝を描き、濃い墨で花びらをあしらい、清らかで俗世離れした芸術的なスタイルを示しています。乾隆帝はこの絵を絶賛し、自ら詩を添えました。この絵は後に乾隆帝の御蔵に収められ、宮廷芸術の貴重な品の一つとなりました。

書道において、允祕は特に楷書と行書に優れていました。乾隆二十年(1755年)、允祕は乾隆帝の要請に応じ、新築された乾清宮の扁額を書きました。彼の書は力強く、筆致は力強く、乾隆帝から「顔真卿(がんしんけい)に学び、さらに独自の境地を開いている」と称賛されました。この扁額は乾清宮の大きな見どころとなっただけでなく、清代の書道芸術を研究する上で重要な資料となっています。

允祕の文化事業への貢献も見逃せません。乾隆二十五年(1760年)、乾隆帝は『四庫全書』の編纂を命じました。総纂官の一人として、允祕はこの大規模な文化事業において重要な役割を果たしました。彼は書目の選定に関与するだけでなく、多くの重要な古典を自ら検討しました。編纂の過程で、允祕は独自の意見をいくつか提唱しました。例えば、少数民族の文献を収録し、『四庫全書』の内容を豊かにすることを主張しました。この提案は乾隆帝に採用され、『四庫全書』はより包括的な文化宝庫となりました。

乾隆三十年(1765年)、允祕は『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』の編纂作業に参加しました。これは重要な韻書であり、古代の詩の創作や音韻学を研究する上で重要な意味を持っています。編纂の過程で、允祕はいくつかの革新的な提案をしました。例えば、新しい字句をいくつか追加し、この韻書が当時の言語使用状況により適合するようにしました。

大規模な文化事業に参加する以外にも、允祕は古代の文化財の収集と鑑賞に熱心でした。乾隆三十五年(1770年)、允祕は商人から唐代の青磁器を購入しました。この磁器は美しい形をしており、釉薬の色は玉のようで、允祕はこれを宝物と見なしました。彼は自らこの磁器に詳細な鑑定報告を書き、乾隆帝に献上しました。乾隆帝はこの磁器を大いに称賛し、宮廷の珍蔵品として収めました。

晩年、允祕はより多くの精力を文化事業に注ぎました。乾隆四十年(1775年)、彼は『清朝詩選』の編纂を主導しました。これは、清朝初期からの重要な詩人の作品を収録した選集です。編纂の過程で、允祕は作品の芸術的価値を重視するだけでなく、地域や流派のバランスも考慮し、この選集が清代の詩を研究するための重要な資料となるようにしました。

允祕の文化分野における貢献は、彼の個人的な才能を示すだけでなく、清代の皇族が文化事業を重視していたことを反映しています。皇叔として、彼は最高レベルの文化資源に触れる機会があり、比較的独立した文化的立場を維持することができました。彼の文化活動は、清代中期の文化の繁栄に大きく貢献し、後世に貴重な文化遺産を残しました。

年齢を重ねるにつれて、允祕は徐々に政治の舞台の中心から退いていきましたが、彼の晩年生活は依然として豊かで多彩でした。乾隆四十五年(1780年)、60歳を超えた允祕は、正式に軍機大臣の職を辞しました。乾隆帝はこれに理解を示し、特に允祕に「頤養天年(いようてんねん)」の詔書を与え、褒賞しました。

朝政の中心から退いたものの、允祕は決して隠居することはありませんでした。乾隆四十六年(1781年)、彼は総管内務府大臣に任命されました。この役職は、国家の重大事には関与しませんでしたが、皇室の日常事務を管理する重要な役職でした。允祕はこの役職で卓越した管理能力を発揮し、内務府の運営をより効率的かつ秩序正しくしました。

晩年、允祕はより多くの精力を文化事業に注ぎました。乾隆五十年(1785年)、彼は『清代名臣伝』の編纂を主導しました。この著作は、清朝建国以来の重要な大臣の事績を収録したもので、重要な歴史資料であるだけでなく、允祕が清朝の歴史を深く理解していたことを示しています。編纂の過程で、允祕は客観的かつ公正であることを心がけ、論争の的となる歴史上の人物に対しても、公平な評価をするように努めました。

歴史書を編纂する以外にも、允祕は骨董品の収集と鑑賞に熱心でした。乾隆五十五年(1790年)、彼は江南の商人から宋代の汝窯(じょよう)の磁器を購入しました。この磁器は釉薬の色が天青のようで、質地は玉のようで、允祕はこれを宝物と見なしました。彼は自らこの磁器に詳細な鑑定報告を書き、乾隆帝に献上しました。乾隆帝はこの磁器を大いに称賛し、宮廷の珍蔵品として収めました。

文学創作において、晩年の允祕は人生に対する考察と自然観察をより重視しました。乾隆六十年(1795年)、彼は『秋日感懐』という詩を作りました。「霜染楓林盡、風搖蘆荻寒。人生如朝露、歲月似流川(霜が楓の林を染め尽くし、風が葦の葉を揺らす。人生は朝露の如く、歳月は流れる川の如し)」この詩は、允祕の詩の才能を示すだけでなく、彼の人生の儚さに対する悟りを反映しています。

晩年の允祕はまた、庭園芸術にも熱心でした。北京の郊外に、彼は「澹泊園(たんぱくえん)」と呼ばれる私的な庭園を持っていました。乾隆六十三年(1798年)、允祕はこの庭園の大規模な改造を行いました。彼は庭の東屋や楼閣を自ら設計し、多くの珍しい花や木を導入しました。この庭園は、允祕が晩年に休息する場所となっただけでなく、当時の京城の文人たちが集まる重要な場所にもなりました。

70歳を超えても、允祕は旺盛な学習意欲を維持していました。嘉慶元年(1796年)、彼は仏教の経典を体系的に学び始めました。研究の過程で、彼は多くのノートや感想を書きました。これらの文章は後に『仏学札記(ぶつがくさっき)』という本にまとめられ、清代の仏教思想を研究するための重要な資料となりました。

嘉慶五年(1800年)、80歳の允祕は自身の誕生日を迎えました。嘉慶帝は特に彼のために盛大な祝宴を開催し、自ら彼のために「寿比南山(じゅひなんざん)」の扁額を書きました。祝宴で、允祕は即興で『八十自寿(はちじゅうじじゅ)』の詩を作りました。「八十春秋眼未花、閑來還喜讀詩書。人生得似長江水、恰到風波不見時(80年の春と秋、目はまだ霞まず、暇な時には詩書を読むのが好きだ。人生は長江の水のようであるべきで、ちょうど良い時に風波は見られない)」この詩は、允祕の才能を示すだけでなく、彼の人生に対する達観した態度を反映しています。

允祕の生涯は、雍正、乾隆、嘉慶の三朝にわたり、清朝が盛世から衰退へと向かう歴史的過程を目撃しました。皇族の一員として、彼は国家の重大事に関与し、文化分野でも貢献しました。政治的には、複雑な宮廷環境の中でバランスを保ち、皇帝の信頼を得ながら、他の大臣の嫉妬を招かないようにしました。文化的には、個人的な芸術的才能を持つだけでなく、多くの重要な文化事業に参加し、清代文化の繁栄に貢献しました。

允祕の人生経験は、清代中期の政治文化を理解するためのユニークな視点を提供してくれます。彼の政治生活は、清代の皇族が朝政に参加する方法を示しており、彼の文化分野における貢献は、清代の皇室が文化事業を重視していたことを反映しています。允祕の生涯は、清代盛世の文人の典型と言えるでしょう。彼は政治と文化という2つの分野で貢献し、清朝の発展に貢献したのです。