三国志演義で屈指の名勝負といえば、馬超が登場する二つの激戦!潼関では許褚と200合以上、葭萌関では張飛と200合以上も戦いました。結果だけ見れば張飛の方が強いのですが、馬超は許褚の名を戦う前から恐れていたのです。
しかし張飛との戦いでは「我は代々公侯の家柄、田舎者の身分など知るものか!」と見下す発言。出自で言えば許褚も張飛も大差ないのに、なぜ馬超は張飛を嫌ったのでしょうか?その理由は、ある人物に関係しているのです。それは…趙雲!
赤壁の戦いの後、馬騰は曹操を油断させるために降伏を装い、許都に入ろうとしましたが、密告により曹操に殺されてしまいます。これを知った馬超は激怒し、西涼の軍勢を率いて曹操を討ち、父の仇を討とうとしました。両軍は潼関で対峙。馬超と曹操は陣前に出て言葉を交わします。「まずはっきりさせてもらおうか!」
その時、馬超は曹操を奇襲して殺そうとしましたが、曹操のそばにいる屈強な武将を見て、ためらってしまいます。馬超は以前から曹操の護衛である許褚が軍中で最も勇敢であると聞いており、警戒していたのです。その後、馬超は許褚と戦い、許褚の刀を打ち落とすなど、わずかに許褚を打ち破りました。
馬超は曹操に敗れた後、西川の劉璋の元に身を寄せ、劉備が西川を攻めると、馬超は劉備を迎え撃つよう命じられ、葭萌関で戦いを挑みます。当初、馬超は趙雲と戦うつもりで、「長坂坡の英雄はいるか!一騎打ちを挑む!」と何度も尋ねましたが、当時趙雲は葭萌関にはおらず、遠征中で帰還していませんでした。諸葛亮は馬超が勇敢で無敵であることを知っていたため、劉備に「趙雲、張飛以外に馬超に匹敵する者はいない」と告げました。劉備はすぐに張飛を連れて馬超を迎え撃ちました。
馬超は出てきたのが張飛だと知り、がっかりしました。張飛もまた勇猛な武将であることを知っていましたが、彼と戦っても自分の名声は高まらないと考えていたのです。しかし、趙雲に勝てば、自分が天下無双の武将として名を馳せ、人々は「馬超は呂布に劣らない勇猛さだ」と言うでしょう。自分の思惑が外れたことを悟った馬超は、怒りを張飛にぶつけましたが、二人の武力は拮抗しており、一日中戦っても勝負はつきませんでした。最終的に孔明は計略を用いて馬超を降伏させ、馬超の加入によって劉備の五虎大将軍がついに揃ったのです。
唯一の心残りは、金色の槍を持つ馬超と銀色の槍を持つ趙雲の対決が見られなかったこと。もし二人が戦ったら、どちらが勝つと思いますか?