【三国志 ㊙️話】諸葛亮 vs 法正!蜀漢No.1はどっちだ!?意外な結末にア然…!

諸葛亮は忠誠心と才能で劉備に重用され、軍師将軍、丞相として権力を握りました。一方、法正も蜀郡太守、揚武将軍として重用されましたが、諸葛亮には及びません。劉備が出征する際は法正が同行し、諸葛亮は後方支援を担当。二人の役割は異なっていました。

法正は、諸葛亮ほど人々の心に深く刻まれることはありませんでした。

劉備は三顧の礼をもって諸葛亮を迎え、二人は水を得た魚のように、見事な連携を見せました。

法正は元々劉璋の配下でしたが、後に劉備に寝返りました。忠誠心という点では、諸葛亮に及ばないかもしれません。

君主は忠誠心を最も重視します。法正は劉璋の下で見出されなかったため、劉備の下でも同じことを繰り返す可能性がありました。

法正は才能があったため、劉備に重用されました。一方、諸葛亮は才能に加え、忠誠心も兼ね備えていたため、劉備に深く信頼されました。この点が二人の違いです。

『三国志』によると、劉備が江南を平定した後、諸葛亮は軍師中郎将に任命され、零陵、桂陽、長沙の3つの地域を管轄し、税を徴収して軍の物資を調達しました。

赤壁の戦いの後、劉備は諸葛亮を軍師中郎将に任命し、零陵、桂陽、長沙の3つの地域を管理させ、税を徴収して軍の開支に充てました。

劉備は軍師中郎将という役職を新設しました。軍師は戦略を立てる役割、中郎将は武事を司る官であり、文武両方の能力が求められました。

軍師中郎将は、主に零陵、桂陽、長沙の3つの地域を管轄しました。これは非常に重要な任務であり、劉備の重要な軍事・政治を補佐する一方で、3つの郡の軍事・政治も担当しました。

龐統も軍師中郎将に任命されましたが、彼は主に劉備に付き添って助言を与えました。この軍師中郎将は、臨時の役職と見なすことができます。

『三国志』によると、劉備が葭萌関から劉璋を攻めた際、諸葛亮は張飛、趙雲らと共に船で遡り、各地を攻略し、最終的に劉備と共に成都を包囲しました。成都を陥落させた後、劉備は諸葛亮を軍師将軍に任命し、左将軍府の事務を管轄させました。劉備が出征する際は、諸葛亮が成都を守り、食糧と兵馬を十分に準備しました。

劉備が成都を占領した後、諸葛亮を軍師将軍に任命し、左将軍府の事務を担当させました。

当時、劉備が就いていた最大の官職は、自ら府を開いて執務できる左将軍でした。劉備が府を開いて政務を執る際、諸葛亮がその責任者となり、左将軍府の大小の事務を管理しました。

左将軍府の職務と尚書事務の掌管は、実質的な権力を持つ地位でした。劉備の勢力範囲は荊州と益州に及んでいましたが、当時の肩書きは左将軍に過ぎませんでした。

劉備の建国を中央政府と見なした場合、諸葛亮の左将軍府の管理は、中央政府の大臣のトップのようなものでした。

次に、法正について見てみましょう。

『三国志 法正伝』によると、法正は蜀郡太守と揚武将軍に任命され、都の周辺地域を管理し、内部では戦略立案の中心人物となりました。

劉備が益州を平定した後、法正を蜀郡太守に任命し、揚武将軍に封じました。彼は都とその周辺地域を管轄する一方で、劉備の戦略立案を補佐しました。

当時の劉備はまだ左将軍であり、漢中王にはなっていませんでした。正式な都も持っておらず、成都を一時的な拠点としていました。成都は劉備にとって臨時の首都のようなものでした。

法正は成都を管理する蜀郡の責任者、つまり首都のトップのような存在でした。劉備は法正に揚武将軍の称号も与えました。

地位を比較すると、諸葛亮は戦略を立てる軍師将軍であり、法正は揚武将軍でしたが、これらの将軍の称号は名ばかりで、実権はありませんでした。

諸葛亮は左将軍府の事務を担当し、朝廷の丞相のような存在でした。一方、法正は蜀郡を管理し、首都の市長のような存在でした。国家のトップと都市の管理者では、明らかに諸葛亮の地位が高いと言えます。

二つのエピソードから、諸葛亮の地位が法正よりも高かったことがわかります。

一つは、『蜀科』という規定が制定されたことです。

『蜀科』は蜀漢の国家大法であり、軍師将軍の諸葛亮、揚武将軍の法正、昭文将軍の伊籍、左将軍の補佐官である劉巴、興業将軍の李厳の5人が制定に協力しました。

諸葛亮がリーダーであり、他の4人は彼を補佐する役割でした。

法正は、漢の高祖劉邦が関中に入った際、三つの簡単な法律を定めたことを参考に、厳罰を一時的に緩和し、規則を緩やかにすることを提案しました。

諸葛亮は、漢朝初期の規則に固執せず、状況に応じて柔軟に対応する必要があると判断しました。その理由を説明するため、法正に手紙を送りました。

つまり、諸葛亮が『蜀科』の判決権を握っており、法正は意見を述べるだけで、最終的な決定は諸葛亮に委ねられていたのです。

別の説では、法正が蜀郡で傍若無人な振る舞いをしているという訴えが諸葛亮に寄せられ、劉備に法正を注意するよう依頼したと言われています。

諸葛亮は、劉備にとって法正は虎に翼を得たような存在であり、法正を束縛する必要はないと考えました。

法正の傍若無人な振る舞いを、なぜ劉備に直接訴えなかったのでしょうか。一つは劉備が信じなかった可能性、二つ目は劉備が諸葛亮の言葉に耳を傾けたこと、三つ目は諸葛亮の地位が法正よりも高かったため、人々が彼に相談したことが考えられます。

もし諸葛亮の地位が法正よりも低ければ、相談しても無駄だったでしょう。

『漢中王即位要請の連名状』には、平西大将軍、都亭侯の馬超、左将軍兼長史鎮軍大将の許靖、軍営司令の龐羲、軍議官の射援、軍師の諸葛亮、保衛将軍、漢寿亭侯の関羽、征討将軍、新亭侯の張飛、征西大将の黄忠、鎮守遠地将軍の頼恭、勇猛将軍の法正、開拓将軍の李厳ら百二十名の大臣が連名で署名しています。

劉備が漢中王に封じられた際、蜀漢の大臣たちが朝廷に請願書を提出しました。その筆頭は11名であり、この11名が蜀漢で最も高い地位にありました。

諸葛亮は5番目に位置し、軍師将軍の役職に就いていました。一方、法正は10番目に位置し、揚武将軍の官職でした。

この上表は、正式な場で誰がより大きな影響力を持つかを示しています。関羽と張飛でさえ諸葛亮の後ろに並び、法正はさらに後ろに並びました。

『三国志』には、劉備が漢中王に即位した後、法正を尚書令と護軍将軍に任命したと記されています。

劉備が漢中王に即位した後、法正を尚書令と護軍将軍に任命しました。

この時、諸葛亮には何の褒賞もありませんでした。なぜなら、もはや褒賞を与える地位が残されていなかったからです。

諸葛亮は元々左将軍府の事務を管轄していましたが、劉備が漢中王に即位すると、自然と漢中王府の事務を管理する立場に昇格しました。その後、劉備が皇帝を称すれば、諸葛亮は丞相になるでしょう。

『三国志』には、諸葛亮が丞相に就任し、尚書の事務も管轄し、先斬後奏の権限を与えられたと記されています。張飛が亡くなった後、司隷校尉の職も兼任しました。

劉備は漢中王、つまり地方の大王でした。漢朝の慣例では、このような大王には、補佐役として丞相が必要でしたが、この丞相は中央の皇帝が任命する必要がありました。天下が乱れているとはいえ、劉備に丞相を封じることは可能でしたが、もし彼が皇帝になった場合、丞相の地位をどのように褒賞すれば良いのでしょうか。

法正は劉備の尚書令であり、国の重要な事務を処理する有能な補佐役でした。官職は高くありませんでしたが、大きな権力を持っていました。

諸葛亮は漢中王府の大小の事務を管轄し、丞相のようにすべての官僚のトップに立ち、その地位は尚書令よりもはるかに高かったと言えます。

曹操が存命中は、丞相を務めていました。一方、荀彧は尚書令でした。どちらの地位が高いかは一目瞭然です。

諸葛亮は劉邦陣営における蕭何のような存在であり、法正は陳平のような存在でした。蕭何の地位は陳平よりも高かったものの、劉邦は戦の際に陳平を連れて戦略を練り、蕭何には後方で大局を安定させることを任せました。

劉邦は蕭何を自分の最大の功労者と称賛しました。なぜなら、彼が軍の食糧を確保したからです。同様に、劉備の最大の功労者は、間違いなく諸葛亮でしょう。

劉備が出征の際に常に法正を同行させ、諸葛亮を同行させなかったことから、劉備が法正を偏愛し、諸葛亮を嫌っていたと考える人がいますが、それは誤解です。彼らはそれぞれ異なる役割を担っていたのです。

諸葛亮は国の管理に長けており、後方支援に優れていました。一方、法正は巧妙な策略を考案することが得意であり、彼を同行させることで、良いアイデアが生まれる可能性がありました。

最も重要なことは、後方を任される人物は、君主が最も信頼している人物であるということです。劉備は明らかに諸葛亮をより信頼していたのです。