1947年4月、国民党東北“剿総”司令長官の杜聿明は10万の大軍を動員し、南満臨江へ進攻を開始。杜聿明は柳河などの県を奪取し、東北野戦軍第3、4縦隊を通化で決戦に持ち込み、最終的に臨江を攻略するという“先南後北”の戦略を企てました。3月31日、南満の中国共産党遼東分局は、曾克林を第3縦隊司令員、韓先楚を第4縦隊副司令員に任命し、曾克林を主将、韓先楚を副将とする体制を決定。ところが戦役中、韓先楚という副将が主将に取って代わるという、前代未聞の事態が発生!一体何が起こったのでしょうか?今回は、この戦役とその裏に隠された驚くべき物語をご紹介します。
戦役前夜、曾克林と韓先楚は、戦いを有利に進めるための戦略について激論を交わしました。曾克林は敵の暫編20師団を先に叩くべきだと主張しましたが、韓先楚は89師団を先に攻撃すべきだと強く主張。深夜まで意見は平行線を辿り、両者は遼東軍区に意見を報告し、上級首長の裁決を仰ぐことに。軍区は韓先楚の意見を全面的に支持し、韓先楚に3、4縦隊の統一指揮を委ね、敵89師団の迅速かつ完全な殲滅を目指すよう指示しました。電報を見た曾克林は、寛大な態度で韓先楚に「上級があなたに統一指揮を任せたのだから、我々はあなたの指示に従う」と伝えました。
4月3日、戦闘が開始。敵89師団は、韓先楚の予想通り、見事に伏兵陣地へと誘い込まれ、韓先楚の指揮の下、解放軍は敵89師団と54師団162連隊を全滅させることに成功しました。
歴史上、副官が主将の戦略に異議を唱えることは珍しくありませんが、副官と主将が上級の承認を得て立場を交代し、大勝利を収めた事例は極めて稀です。これは、我が軍の卓越した団結力と効率性を示すものであり、このような軍隊が戦う上で無敵であることは必然だったと言えるでしょう!