三国志の諸葛亮と、清朝の紀曉嵐。一見、共通点のない二人ですが、実は「見た目」と「才能」という点で対照的な存在です。諸葛亮は美男子で才能にも恵まれ、順風満帆な人生を送りました。一方、紀曉嵐は醜い容姿で近眼、おまけに吃音まであったにも関わらず、乾隆帝に寵愛され、官僚として成功を収めました。
なぜ、このような違いが生まれたのでしょうか?その謎を解き明かしていきましょう!
古代中国では、容姿も重要な要素でした。孫権が龐統を嫌ったのは、彼の容姿が醜かったからだと言われています。劉備が諸葛亮を重用したのは、彼の才能だけでなく、容姿も関係していたのかもしれません。
鬼谷子が山を下りなかったのは、自分の容姿を自覚していたからかもしれません。彼は弟子たちに智慧と才能を授け、蘇秦、張儀、龐涓、孫臏、白起、王翦、李斯など、多くの風雲児を育てました。
韓非子は優れた才能を持っていましたが、吃音のため官僚として成功することができませんでした。しかし、その才能を活かして思想家として名を残し、「矛盾」「濫竽充数」「老馬識途」などの故事成語を生み出しました。
龐統や韓非子は欠点がありましたが、その欠点が新たな道を開いたとも言えます。韓非子が思想家として名を残したのは、官僚になれなかったからかもしれません。
紀曉嵐は、醜い容姿、吃音、近眼という三重苦を抱えながらも、乾隆帝に重用され、官僚として成功を収めました。ドラマ「鉄歯銅牙紀曉嵐」では、和珅とのユーモラスな掛け合いが描かれていますが、史実とは異なる点も多いようです。
実際の紀曉嵐は吃音で、ドラマのような流暢な話し方はできませんでした。また、官位も和珅には遠く及ばず、年齢も20歳以上離れていました。和珅は5ヶ国語を操る才能の持ち主で、紀曉嵐に劣らない知性を持っていました。
紀曉嵐の容姿は「貌寝短視」と記録されており、醜く、近眼だったことがわかります。乾隆帝は容姿端麗な人材を好んで登用しましたが、紀曉嵐は例外でした。和珅、王傑、福長安、福安康、傅恒など、乾隆帝の側近には美男子が多くいました。
では、紀曉嵐はなぜ、乾隆帝に重用されたのでしょうか?
紀曉嵐は、鬼谷子の言う「方円合璧」の処世術を心得ていました。「方」とは、道徳的な原則や譲れない一線。「円」とは、状況に応じた柔軟な対応です。紀曉嵐は「方」をしっかりと守りながら、「円」を駆使して、乾隆帝の信頼を得ました。
ある時、乾隆帝が紀曉嵐に「忠孝とは何か?」と尋ねたところ、紀曉嵐は「君が臣に死を命じれば、臣は死ぬのが忠。父が子に死を命じれば、子は死ぬのが孝」と答えました。乾隆帝が「君が臣に死を命じたら、どうする?」と尋ねると、紀曉嵐は「命に従います。どのような死に方がよろしいでしょうか?川に飛び込みましょうか?」と答えました。しばらくして、紀曉嵐が戻ってきて「屈原に会いました。屈原は明君に巡り会えなかったから死んだと言っています。今は明君の時代ですから、死ぬ必要はありません」と答えました。乾隆帝はこれを聞いて、大笑いしたそうです。
紀曉嵐は「方円合璧」の処世術を巧みに使いこなし、四庫全書が完成した際には、礼部尚書に任命され、紫禁城での乗馬を許されました。これは紀曉嵐のキャリアの頂点でした。彼は雍正帝、乾隆帝、嘉慶帝の三代に仕え、三度礼部尚書に任命されました。死後、嘉慶帝は自ら碑文を書きました。紀曉嵐は生前から死後まで栄誉に包まれましたが、和珅は才覚に長けていたものの、晩節を汚しました。
紀曉嵐は曾国藩のような武功はありませんでしたが、一時の栄華を極めました。曾国藩は自らの才能を隠し、鋒芒を避けて、忠誠を尽くしましたが、紀曉嵐よりも悲壮感が漂っています。曾国藩の時代は戦乱に満ちており、彼は清朝の命脈を繋ぐために、文字通り命を懸けて戦いました。
古代の賢人たちの智慧は、現代の私たちにも大いに役立ちます。「方」を守り、状況に応じて「円」を使いこなす。それが真の知恵者です。大きな事では原則を守り、小さな事では柔軟に対応する。現代社会は「方円合璧」を必要としているのではないでしょうか?