1395年秋、中央アジアの征服者ティムールは、金帳汗国のトクタミシュを破り凱旋。帝国領内のイラン高原で反乱が起こるも、息子たちが鎮圧。満足したティムールは兵士に休暇を与え、サマルカンドで建築と庭園の監督に。
サマルカンドのティムール像
帝国は繁栄し、アフガニスタンからイラン西端までが領土に。ティムールは領土を息子たちに分け与え、自身は中央アジアで力を蓄える。彼はアム川とシル川の間の土地を愛し、サマルカンドを世界の中心、最大の都市にすると誓う。
1398年春、サマルカンドを富ませるため、ティムールはデリー・スルタン朝への遠征を決意。インド河流域の富、そしてチンギス・ハーンが果たせなかったインド征服への野望があった。
ティムールの宮廷
しかし、遠征会議で部下たちは不満を漏らす。「なぜインドへ? 地形は複雑で、川、山、ジャングルが多く、気候は暑く、戦象もいる」
ティムールは怒り、部下たちを叱責。恐怖に沈黙した後、遠征命令を下す。準備期間を経て、9万2千の騎兵を集結。
ティムールの軍隊
1398年5月、ティムールはインド川を渡り、デリー・スルタン朝軍を打ち破る。インドの戦象も敵わず、戦場には切断された象の鼻が散乱。デリーは地獄と化し、約10万人がティムール兵に殺害される。
虐殺後、ペルシア人学者がティムールに警告。「インドに長居してはならない。温暖な気候は人を堕落させる。もし兵士や子孫がインドで暮らせば、戦闘力を失い、戦えないインド住民になるだろう」
ティムール帝国の学者
ティムールは星占いや予言を信じており、この警告を受け入れ帰還を決意。デリーを略奪し、莫大な戦利品を持って凱旋。サマルカンドに戻ると、帝国住民への納税を5年間免除したという。
そして、学者の予言は的中。16世紀初頭、ティムールの6代目の子孫であるバーブルがインドに侵攻し、ムガル帝国を築く。中央アジアの軍隊でインドを征服したが、インドに入った中央アジア人は次第に戦闘力を失い、アクバル統治時代にはインドのラージプートに国防を頼るまでになった。