【歴史ミステリー】ポン・ビンシュン将軍、寄せ集め部隊で日本軍最強師団を打ち破った驚愕の真相!

1938年、日中戦争。上海、南京を占領した日本軍は、長江を渡り安徽省蚌埠を占拠、津浦線沿いに北上し、江蘇省徐州へ進撃を開始しました。

「鉄軍」の異名を持つ板垣征四郎率いる第五師団は、山東省の崂山湾に上陸。その後、西に進み濰県、高密、諸城一帯から、黄河を渡った磯谷廉介率いる第十師団と呼応し、山東省臨沂を攻略、左右両翼から江蘇省徐州を包囲しようと企てました。

1938年春、臨沂を守備する中国軍は、日本軍板垣師団との決戦に臨むことになります。

戦役勃発前夜、蒋介石は臨沂を守るポン・ビンシュンとその指揮下の第四十軍が、日本軍の攻撃に耐えきれるかどうか疑念を抱いていました。

しかし、経験豊富で世渡り上手、常に兵力を温存することで知られるポン・ビンシュンは、解散寸前の「寄せ集め部隊」を率いて、なんと板垣師団を打ち破ったのです!

臨沂戦役の裏には、どのような知られざる物語が隠されているのでしょうか?

ポン・ビンシュンは、1879年に河北省新城県に生まれました。1900年、21歳のポン・ビンシュンは保定へ留学。しかし間もなく学業を捨て、軍人の道へ。その豪快な性格と、細部まで行き届いた仕事ぶりから、同盟会会員の孫岳に認められ、紹介を経て同盟会に加入しました。

1920年、ポン・ビンシュンは直隷義勇保衛チーム長に就任。1921年7月、保衛団は陸軍第十五混成旅に改編され、ポン・ビンシュンは副官長兼騎兵営長となり、匪賊討伐に参加しました。

1924年、国民軍は大規模な拡張を行い、ポン・ビンシュンは陸軍第二混成旅旅長に就任。1924年末には陸軍少将に昇進しました。

1930年、中国近代史上空前の規模となった軍閥同士の戦い、中原大戦が勃発。ポン・ビンシュンは第二混成旅を率いて、蒋介石軍と何度も交戦しました。

危険を避け、兵力を温存することに長けていたため、傘下の部隊は弱体化するどころか、鹵獲した武器弾薬によって強化されていきました。

中原大戦が終盤に差し掛かった頃、東北軍の統帥である張学良が中立を放棄し、蒋介石を支持したことで、華北を占領。反蒋連合軍は敗北が決定的となりました。ポン・ビンシュンは蒋介石に買収され、部隊を率いて山西省に退き、国民党に加入。傘下の第二混成旅は第四十軍に改編され、ポン・ビンシュンは軍長に就任しました。

当時、ポン・ビンシュンのように日和見主義的な軍閥は少なくなく、誰も咎める者はいませんでした。

しかし、ポン・ビンシュンは蒋介石に手柄を立てようと、なんと友軍であった張自忠の師部を奇襲したのです。3名の警護兵が彼を守って戦死し、張自忠自身も足に負傷し、命を落としかけました。

このため、張自忠はポン・ビンシュンの裏切りを深く恨んでいました。日中戦争が勃発すると、ポン・ビンシュンと張自忠は共に第五戦区に所属することになります。張自忠は当時第五戦区参謀長であった徐祖詒に対し、「どこであろうと命を懸けて戦う覚悟はあるが、ポン・ビンシュンと同じ戦場で戦うことだけはご免だ」と語ったそうです。

1935年、ポン・ビンシュンは陸軍中将に昇進。1937年初めには、第四予備軍総司令に任命されました。

1937年7月、全面的な抗日戦争が勃発、国共合作が実現しました。1938年初頭、徐州会戦前夜、日本軍板垣征四郎第五師団は山東省崂山に上陸後、高密、諸城一帯へ進軍しました。

この時、臨沂の失陥は華東、華中の戦局全体に影響を及ぼすため、臨沂が陥落すれば、徐州の北東は守る場所がなくなります。そして、臨沂の守備を担当していたのは、まさにポン・ビンシュンの第四十軍だったのです。

日本軍板垣師団と比較すると、ポン・ビンシュンは軍長ではありましたが、実際には名ばかりでした。第四十軍は傘下に第39師団を一つ有するのみで、全軍の兵力は13,000人を超えることはありませんでした。

もしこの戦役が起こらなければ、蒋介石はとっくに第四十軍を解散させていたでしょう。加えて、ポン・ビンシュンは世渡り上手な人物であり、巷では「不倒翁(ふとうおう、だるま)」と呼ばれていました。

そのため、蒋介石はポン・ビンシュンが全力を尽くして日本軍に抵抗するかどうか疑念を抱いていたのです。

幸いなことに、第五戦区司令長官の李宗仁はポン・ビンシュンを手厚くもてなしました。臨沂戦役勃発前夜、李宗仁は公に声明を発表しました。「今は抗日報国の重要な時期である。国家と民族のために戦場で戦死できるならば、これこそが真に死に場所を得たということだ。」

ポン・ビンシュンはこれを聞いて非常に感動し、すぐに「国のために尽力し、万死に値する。李長官、ご安心ください。もはや兵力を温存することはせず、必ず最後まで敵と戦い抜きます」と表明しました。

戦闘が始まると、ポン・ビンシュンは言葉に嘘はありませんでした。板垣師団は益都地区から南下し、臨沂へ大挙して進発しました。日本軍はまず、師団の優勢な兵力に山砲団と騎兵旅団を配備し、ポン・ビンシュンの第四十軍に猛攻を仕掛けました。

さらに、敵は海軍を使って海州を陽動作戦で攻撃し、南北の大軍が徐州へ進発するのを支援しました。「寄せ集め部隊」である第四十軍の兵士たちは、臨沂を死守しました。日本軍は航空機と大砲の支援を受け、数日間にわたって繰り返し猛攻を仕掛けましたが、臨沂を攻略することができず、自軍も大きな損害を出しました。

当時、従軍して徐州一帯を観戦していた国内外の記者は数十人に上りました。この戦況を見て、誰もが最も優秀な天皇の鉄軍が、これまで無名であった中国の「寄せ集め部隊」に苦戦を強いられていることに驚きました。

あるアメリカ人記者は、「ナポレオンは『獅子が率いる羊の部隊は、羊が率いる獅子の部隊よりも常に強い』という名言を残したが、ポン将軍は東洋の獅子だ」と語ったそうです。

つまり、ポン・ビンシュンは第四十軍を率いて板垣征四郎の第五師団に面目を失わせたのです。日本軍は臨沂をなかなか攻略できず、相次いで5,000人以上の援軍を送り込み、30門以上の大砲と20両以上の戦車を配備し、臨沂に対して猛烈な包囲攻撃を開始しました。

ポン・ビンシュンは部隊を率いて奮戦し、第四十軍は半数以上が死傷しました。最終的には、炊事係や後方支援兵まで前線に投入されました。ポン・ビンシュンは自らの行動によって、李宗仁との約束、つまり「もはや兵力を温存することはせず、死ぬまで頑強に抗戦する」という誓いを果たしたのです。

第四十軍が壊滅寸前になった時、数名の側近がポン・ビンシュンに、再起を図るためにすぐに撤退するよう強く勧めました。しかし、ポン・ビンシュンは断固として拒否し、天を仰いでため息をつき、「私はもうすぐ60歳になり、足も不自由だが、何も未練はない。今日、国のために敵を討つことができるのは、本当に幸せなことだ!」と言いました。

そう言うと、ポン・ビンシュンは部隊を率いてすぐに戦闘に突入しました。さらに2日2晩の激戦の後、老いぼれ部隊をほぼ使い果たしたポン・ビンシュンは、李宗仁に救援を求めました。

李宗仁はポン・ビンシュンに敵の前進を断固として阻止するよう命じると同時に、張自忠に第五十九軍を率いて3日以内に臨沂へ急行し、ポン・ビンシュン軍と共同で作戦するよう命じました。

李宗仁は自ら張自忠を説得し、個人的な恨みを捨てるよう求めました。張自忠は大義を理解し、「私は長官の命令に絶対服従します。ご安心ください」と力強く答えました。

最終的に、ポン・ビンシュンと張自忠は1万人近い犠牲を払い、敵3,000人以上を討ち取りました。

北路日本軍の左腕を切断し、板垣師団の南下を阻止することに成功しました。臨沂戦役の勝利は、後の台児荘戦役の勝利のための前提条件を提供しました。

そのため、蒋介石は臨沂戦役終了後、「抗戦勝利の先駆けを開き、国軍の士気を振るい立たせた」と電報で嘉賞したのです。

実際の戦闘において、ポン・ビンシュンはこれまでの兵力温存という軍閥の悪癖を改め、部隊を率いて最後まで苦戦しました。張自忠は過去の恨みを忘れ、かつての仇敵を緊急支援しました。

二人の将軍は国家存亡の危機に際し、戦局を完全に覆し、まさに抗戦史上の一つの美談となりました。