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愛新覚羅德克伸(1722-1770)の生涯を紐解きます。
彼は、清の太祖ヌルハチの次男、礼親王代善の玄孫にあたります。曾祖父の碩托は、元々固山貝子という高い地位にいましたが、ドルゴンを支持したために地位を剥奪され、子孫は庶民となりました。しかし、康熙帝の時代に、その子孫は宗室としての身分を回復し、赤い帯を身につけることが許されました。
祖父の岳賽布は、康熙帝の従兄弟にあたりますが、順治帝と同い年でした。
父の富森は、康熙帝の時代に軽車都尉の世襲職を継ぎ、藍翎侍衛からスタートして、最終的には左都御史という朝廷の重臣にまで上り詰めました。
一:弘字輩德克伸の人生
德克伸が生まれたのは康熙61年、康熙帝がまだ在位していた頃です。その2ヶ月後、康熙帝は崩御しました。
乾隆8年、德克伸は22歳。この時、父の福森は一品官である黒龍江将軍を務めており、地方の要職を担っていました。宗室の子として、成人した德克伸は朝廷から官職を与えられることになります。彼は藍翎侍衛に任命され、六品官となりました。
乾隆11年から乾隆21年の10年間で、德克伸は藍翎侍衛から三等侍衛に昇進し、さらに侍衛領班の恩賞を受けました。これは、彼が侍衛の仕事で優れた能力を発揮したこと、そして父の富森が朝廷でますます威厳を高めていたことが理由でしょう。
乾隆26年、德克伸は重用されるようになり、護軍営に異動し、副護軍統領に任命されました。官位は従二品。父とほぼ同じ品級でしたが、権力は父ほどではありませんでした。しかし、護軍統領は非常に重要な役職であり、皇帝が信頼する人物を任命する役職でもありました。
2年後の乾隆28年、正二品の護軍統領に昇進。德克伸が護軍営の管理と皇帝の安全保障において、非常に優れた能力を発揮し、皇帝から高く評価されていたことがわかります。
実は、德克伸は弘字輩であり、乾隆帝とは太祖ヌルハチの五世孫にあたります。
乾隆32年、德克伸は職務において優れた功績を上げ、さらに父が軽車都尉の世襲職であったことから、乾隆帝から騎都尉の称号を与えられました。これは正五品の官位でしたが、德克伸にとって、役職としては二品の俸禄を受け取り、爵位としては五品の俸禄を受け取るという、朝廷から二重の収入を得ることを意味しました。
德克伸が騎都尉を授与された後、さらに副都統(正二品)の称号も授与され、いつでも八旗都統に異動できる立場となりました。
しかし、残念ながら、その3年後の乾隆35年、49歳で亡くなりました。
二:德克伸の四人の息子たちも朝廷で活躍
長男:興成(1747-1772)
永字輩。乾隆12年生まれ。乾隆35年に德克伸が亡くなった後、長男として世襲職である騎都尉を継承しましたが、雲騎尉に降格されました。
次男:興英(1750-1782)
乾隆46年、32歳で内閣中書の職を与えられました。官位は従七品で、主に文書の作成や記録を担当する役職でした。通常、朝廷は科挙に合格した者の中から何人かを選んでこの役職に任命していました。
三男:興林(1759-1827)
乾隆24年生まれ。嘉慶5年、42歳で七品筆帖式に任命されました。
嘉慶19年、七品筆帖式の職に14年間従事した後、六品委署主事に昇進しました。
四男:興昌(1762-1814)
乾隆26年生まれ。乾隆46年に叔父の養子となりました。
乾隆56年、正六品通判に任命されました。
嘉慶5年、六品の官位で知県の実務を担当しました。