湖北省三国文化研究会の射虎氏が発表した論文が話題沸騰!諸葛亮が隠棲していた時代、章陵郡は13の県を管轄していたというのです。
この発見は、劉秀の故郷が瓦店であり、古隆中が南陽郡に属さないことを証明する画期的なもの!
長年の劉秀の故郷論争と諸葛亮の隠棲地論争に終止符を打ち、2つの歴史的難問を一気に解決するかもしれません。
従来の章陵郡の解釈
これまでの説では、東漢時代の章陵郡は棗陽にあり、管轄する県は3つのみ。一方、西晋時代の義陽国は新野を中心に12の県を管轄していました。これにより、劉秀の故郷は棗陽、古隆中は南陽郡に属するとされてきました。
射虎氏の大発見がもたらす意義
射虎氏の発見は、従来の「舂陵は棗陽、古隆中は南陽郡」という誤った見解を覆します。
1. 石泉氏の「舂陵は南陽瓦店付近」説を裏付ける
石泉氏は、南北朝以前の安昌が瓦店付近にあり、安昌の前身である章陵、つまり舂陵も瓦店付近にあったと主張。射虎氏の発見により、東漢時代の章陵郡の管轄範囲は西晋の義陽国とほぼ一致し、その所在地も大きく変わらないことが示唆されました。
2. 古隆中が南陽郡に属さないことを明確にする
東漢時代後期、南陽郡は章陵郡に13県を奪われ、37県ではなくなりました。南陽郡と襄陽の間には章陵郡が存在し、古隆中を漢北鄧県に編入しても南陽郡には属しません。襄陽が古隆中を南陽に売り込もうとする試みは失敗に終わるでしょう。
射虎氏の発見は、劉秀の故郷論争と諸葛亮の隠棲地論争という2つの歴史的難問を解決します。舂陵は瓦店付近にあり、劉秀の故郷も瓦店。諸葛亮が隠棲した南陽は、章陵郡と隔てられた古隆中とは無関係であり、諸葛亮の隠棲地は間違いなく南陽なのです!