【歴史ミステリー】朱元璋没後の奇跡!1398年生まれの少年が明を200年も延命させた!?

「粉身碎骨浑不怕,要留清白在人间。」明朝時代、国のために粉骨砕身を誓い、すべてを犠牲にする覚悟を持った人物がいました。その名は于謙(うけん)。『明史』においても、「忠義心烈、与日月争光(忠義心は烈しく、その輝きは太陽や月に匹敵する)」と賞賛されています。

偉大な人物の誕生は、やはり尋常ではありませんでした。1398年、初代皇帝・朱元璋が崩御した同じ年、浙江省に一人の男の子が誕生します。驚くべきことに、この少年は51年後、明王朝を約200年も延命させることになるのです。

建国皇帝崩御の年に誕生、7歳で宰相の器と見抜かれる

1398年は、明王朝にとって特別な年でした。初代皇帝・朱元璋が崩御し、一つの王朝が終わろうとしていたのです。その同じ年、浙江省杭州府銭塘県太平里で、一人の男の子が産声を上げました。誰もが予想だにしなかったでしょう。この少年が50年後、明王朝を200年以上も延命させることになるとは。彼の名は于謙。

于謙は幼い頃から学問に強い興味を示し、熱心に勉学に励みました。彼の志は高く、文天祥の崇高な節操を敬い、文天祥の肖像画を座右に掲げ、彼のように国に忠誠を誓うことを誓いました。

于謙が7歳の時、一人の僧侶が偶然彼を見かけ、その容姿に驚き、「あなたは将来、国を救う宰相になるだろう」と言い放ちました。

私欲を捨て民を愛し、奸臣を恐れず

1421年、于謙は科挙に合格し、官僚としての道を歩み始めました。当時、皇帝は朱祁鎮(しゅきちん)。彼は宦官の王振(おうしん)を寵愛し、多くの官僚が王振に賄賂を贈りましたが、于謙は上京する際、一度も王振に贈り物をしませんでした。それどころか、自らの清廉潔白な態度を表明する詩を書き、私欲を捨てた生き方を貫きました。

宦官の王振一派は、于謙の厳格な態度を疎み、彼を自分たちの汚職の邪魔者だと考えました。そこで、于謙が昇進できないことを恨み、皇帝に不満を抱いて辞職したと讒言しました。

英宗皇帝は激怒し、于謙を投獄し、死刑を宣告しました。この知らせが広まると、山西省の民衆は次々と上京し、皇帝に于謙の釈放を嘆願しました。民衆の抗議を受け、王振一派は3ヶ月後に于謙を釈放せざるを得ませんでした。

明朝の危機、遷都派を一喝

わずか19歳の明英宗皇帝・朱祁鎮は、血気盛んな青年へと成長し、国を安定させたいという強い思いを抱いていました。しかし、宦官の王振を寵愛しすぎたため、王振は朝廷で権力を独占していました。さらに、オイラト部が明朝の領土に侵攻してきたのです。

正統14年、王振は22歳の朱祁鎮をそそのかし、軽率にもオイラト部への親征を強行させ、歴史上有名な土木の変(どぼくのへん)を引き起こしました。

若い皇帝は、作戦経験もほとんどないまま、50人以上の文武百官と50万人の明朝兵を率いて国境へ向かいましたが、予想通り土木堡で大敗を喫しました。

この戦いで、皇帝は敵に捕らえられ、朝廷のエリート官僚も一掃されてしまいました。朝廷が混乱する中、郕王(せいおう)が国の統治を始めました。

郕王は群臣に作戦と防衛策を議論させましたが、その際、徐有貞(じょゆうてい)という儒者が、星占いと玄学を理由に、郕王に南京への遷都を提案しました。当時、朝廷には主導権を握る者がおらず、孫太后(そんたいごう)も何かしたいと思っても、どうすることもできませんでした。

この危機的状況で、于謙が立ち上がりました。彼は「京師(けいし)は天下の根本であり、遷都すれば国は衰退する」と主張し、かつて宋が杭州に南遷し、二度と都に戻れなかった例を挙げ、遷都派を一喝しました。この時から、于謙は孫太后の信任を得るようになりました。

朝廷の混乱を鎮め、国を安定させるも、無実の罪で処刑

朝廷で、都御史(とぎょし)の陳益(ちんえき)が、王振一族の処刑を皇帝に上奏しました。その時、王振の側近である錦衣衛指揮(きんえいいしき)の馬順(ばじゅん)が前に出て、上奏した官僚を公然と罵りました。

すると突然、王竑(おうこう)が朝廷で馬順を激しく殴りつけ、馬順はその場で死亡しました。朝廷は血の海と化し、官僚たちは混乱を極めました。

その時、于謙が前に進み出て、王振の首を掴み、王振に「馬順は死んで当然だ。皆、慌てるな。この件は二度と追求しない」と言わせました。すると、官僚たちは落ち着きを取り戻し、于謙の袖は完全に裂けていました。

于謙が左掖門(さえきもん)から退出する際、王直(おうちよく)は彼の手に握りしめながら、「国はまさにあなたを頼りにしている。今日の事態は、私が100人いても処理できないだろう」と感嘆しました。

その時から、朝廷全体が于謙を頼り、于謙もまた、自分の職務を全うし、国家の安危を自分の任務としました。

その後、于謙は積極的に軍事力を組織しました。彼は京城全体を総動員し、都の民は侵攻してきたオイラト軍に対し、罠を張り巡らせ、見事北京防衛戦に勝利しました。

郕王・朱祁鈺(しゅきぎょく)が執政していた時代、于謙は重要な役割を果たしました。彼は朝廷の官僚たちの不安を鎮め、土木の変で敗北した後、国を危機から救い、国の安定に貢献しました。

于謙が大明王朝の寿命を延ばし、王朝を危機から救ったと言っても過言ではありません。その功績ゆえに、于謙は一部の小人から妬まれることになりました。

公元1457年、明代宗・朱祁鈺が重病に倒れ、明英宗が復位することになりました。明英宗の復位を祝う式典の際、曹吉祥(そうきっしょう)と徐有貞は于謙に恨みを抱いており、明英宗が帰還すると、明英宗に于謙を殺害するよう迫りました。

人心を掌握し、朝廷の局面を安定させるため、明英宗は自分に忠実な臣下を求めており、于謙は彼が理想とする人物ではありませんでした。そのため、明英宗はこの提案を受け入れました。その後まもなく、于謙は命をかけて守り抜いた北京で処刑され、一代の名臣は小人の罠にはまり、この世を去りました。

于謙は明朝を200年以上も延命させました。危機の際、彼は自分の命を顧みず、たった一人で朝廷を安定させ、北京防衛戦を勝利に導きました。このように気高く忠義に厚い大臣は、処刑されてから8年後についに名誉回復されました。その後の明朝の歴史において、彼は国民から敬われる英雄として奉られました。