【歴史ミステリー】裕親王の末裔、豊烈の数奇な運命!盛京兵部侍郎への道と波乱万丈な人生を大解剖!

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愛新覚羅豊烈(1825-1892)の生涯を紐解く!裕親王福全の五世孫として生まれ、盛京兵部侍郎まで上り詰めた彼の人生とは?

豊烈の家系は、順治帝の皇次子である裕親王福全に遡ります。しかし、彼の先祖は裕親王を剥奪されるなど、必ずしも順風満帆ではありませんでした。

一:咸豊帝の時代に入仕、同治帝の時代に多くの役職を歴任。

道光五年(1825年)に生まれた豊烈は、咸豊二年(1852年)に28歳で役人としてのキャリアをスタートさせます。

同治元年(1862年)には正式な七品筆帖式に任命され、その後、委署主事へと昇進。着実にキャリアを積み重ねていきます。

同治二年(1863年)には歩軍統領衙門に入り、同治五年(1866年)には再び六部主事の実職に就きます。

同治十年(1871年)には五品兵部員外郎に昇進し、同治十三年(1874年)には佐領を署理します。

二:光緒帝の時代に重用され、従二品盛京兵部侍郎にまで昇り詰める。

光緒元年(1875年)には監督の職務を授けられ、花翎を授与されます。その後、虎口の監督差事も務めます。

光緒八年(1882年)には四品京堂候补に、光緒九年(1883年)には内閣侍読学士に昇進。各国事務衙門で慶親王奕劻の下で働きます。

光緒十年(1884年)には太常寺少卿に、光緒十二年(1886年)には通政司副使、光禄寺卿に任命されます。

光緒十二年末には内閣学士兼礼部侍郎銜を授与され、光緒十六年(1890年)には盛京兵部侍郎に就任します。

光緒十八年(1892年)、68歳でその生涯を閉じました。

三:豊烈は一妻一妾を持ち、六人の息子をもうける。

豊烈は、一妻一妾を持ち、六人の息子をもうけました。しかし、長男は18歳で早世し、次男、五男、六男も幼くして亡くなりました。成人したのは三男と四男のみでした。

1.三男の常紀は、光緒十四年(1888年)に效力筆帖式に任命されましたが、その後、朝廷で他の役職に就くことはありませんでした。

2.四男の常徽は、光緒二十一年(1895年)に正五品理藩院の員外郎に任命され、光緒三十二年(1906年)には御史の職に昇進しました。