清朝雍正帝には、李衛、鄂爾泰、張廷玉、田文鏡という四大寵臣がいました。彼らはそれぞれ異なる道を歩みましたが、なぜ李衛だけが特別な結末を迎えることができたのでしょうか?その秘密に迫ります!
李衛は、兵部尚書、太子少傅、刑部尚書、直隷総督を歴任し、乾隆3年(1738年)に51歳で病死。諡号は敏達。乾隆5年には京師賢良祠に祀られました。賢良祠は、雍正8年に建立された、清朝に功績のあった人々を祀る場所。怡親王允祥、李光地、施琅、于成龍、張廷玉、劉墉、福安康、阿桂、胡林翼、曾国藩、左宗棠、李鴻章、張之洞など、錚々たるメンバーが名を連ねています。
鄂爾泰は、雲貴総督、保和殿大学士、軍機大臣、領侍衛内大臣、太傅、襄勤伯を歴任。乾隆10年に66歳で病死し、諡号は文端。太廟に配享され、京師賢良祠にも祀られました。しかし、乾隆20年、甥の鄂其と門生の胡中藻の事件の影響を受け、京師賢良祠から撤去されてしまいます。太廟は東西に分かれ、東殿には親王、西殿には功臣が祀られていましたが、西殿に祀られた漢臣は張廷玉ただ一人でした。
田文鏡は、河南総督、河南山東総督、太子太保、北河総督を歴任。雍正10年に72歳で病死し、諡号は端粛。河道総督の上奏により、河南賢良祠に祀られました。しかし、乾隆5年、河南巡撫が河南の民が田文鏡を恨んでいるとして、撤去を要求。乾隆帝はこれを退けました。張廷玉は、礼部尚書、吏部尚書、保和殿大学士を歴任。雍正帝臨終の際、荘親王允禄、鄂爾泰と共に顧命大臣となり、太廟への配享を遺詔されました。乾隆2年には三等伯爵に進みました。しかし、70歳を超えた張廷玉は頑固になり、乾隆帝との間に溝が生まれていきます。
張廷玉は、乾隆帝が死後、太廟への配享を許可してくれるか不安になり、証拠となるものを求めました。乾隆帝は不快感を抱きながらも、遺命に従う旨の詔書を作成。張廷玉は息子の張若澄に謝恩に行かせましたが、乾隆帝は張廷玉本人が来ないことにさらに立腹。軍機大臣に謝恩を命じる旨を起草させましたが、勅命が発せられる前に張廷玉が自ら現れたため、乾隆帝はさらに不快感を募らせました。最終的に、張廷玉の伯爵位は剥奪されました。
乾隆15年、張廷玉は帰郷を願い出ましたが、乾隆帝は再び怒り、太廟に配享された諸臣を見せつけ、配享に値するかどうか自問させました。最終的に、大学士と九卿を集めて協議し、張廷玉の配享を取りやめました。乾隆20年、張廷玉は84歳で亡くなりましたが、乾隆帝は雍正帝の遺命に従い、太廟への配享を許可しました。結果だけを見れば、最も良い結末を迎えたのは張廷玉と言えるでしょう。太廟と京師賢良祠の両方に祀られたからです。次いで鄂爾泰は太廟に配享されたものの、京師賢良祠から撤去。李衛は京師賢良祠に祀られ、田文鏡は河南賢良祠に祀られました。