【歴史ミステリー】400年間も誤解された皇帝!?実は15万の日本軍を打ち破った英雄だった!~知られざる真実~

(文史潮河オリジナル記事、無断転載禁止!)

中国史における偉大な皇帝といえば、秦の始皇帝や漢の武帝を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、かつての朝鮮国にとって、明朝の皇帝こそが真の英雄でした。彼がいなければ、朝鮮は日本の侵略を受けていたかもしれません。しかし、その皇帝は400年以上もの間、誤解されてきたのです。

その皇帝とは、明朝一の怠け者として知られる万暦帝です。在位48年間、仕事もせず、会議も開かず、大臣にも会わず、書類にも目を通さず、35年間も職務を放棄していたと言われています。

もちろん、この歴史には議論の余地があります。なぜなら、『明史』は清朝の史官によって編纂されたものだからです。清軍が関内に入ると、民衆の支持を得るために、滅亡した国の皇帝である崇禎帝を極度に美化しました。そのため、誰かをスケープゴートにする必要があり、彼らは30年間も朝廷に出仕しなかった万暦帝に矛先を向けたのです。

万暦帝が本当に30年以上も朝廷に出仕しなかったのかどうかは、定かではありません。しかし、万暦帝の在位期間中には、万暦三大征と呼ばれる戦役が行われ、明朝最後の尊厳を守りました。

実は、この3つの戦役は、万暦帝が朝廷に出仕していなかったという「嘘」を覆すものでもあります。これほど重要な戦争で、皇帝が何も言わなければ、誰が軍の指揮権を動かせるでしょうか?戦争は子供の遊びではありません。何度も議論を重ねなければ、勝利はあり得ないのです。

今回は、万暦三大征の中で最も有名な「抗倭援朝の役」についてお話しましょう。万暦19年、日本の豊臣秀吉は15万の兵を率いて朝鮮に侵攻しました。彼の目標は、朝鮮を占領するだけでなく、中国を併合し、さらにアジア全体を支配することでした。

日本は戦国時代を終えたばかりで、兵士たちは百戦錬磨でした。一方、朝鮮は100年以上も戦争をしていませんでした。そのため、日本軍は朝鮮に侵攻すると破竹の勢いで王都に迫りました。朝鮮国王は明朝に救援を求めざるを得なくなり、万暦帝はこれを聞いて大いに驚き、国を挙げて抗倭援朝に乗り出したのです!

当時の明朝はすでに夕暮れを迎えていましたが、その地位は他の国が揺るがせるものではありませんでした。7年間に及ぶこの戦争は、最終的に豊臣秀吉の病死によって終結し、日本軍は狼狽して逃げ帰りました。

この戦いの後、日本は200年以上も朝鮮半島に足を踏み入れることはありませんでした。万暦帝は日本人にとって忘れられない存在となったのです。万暦帝は朝鮮を救いましたが、自身も大きな痛手を負い、最終的に明朝は東北地方に拠点を置く後金によって滅ぼされました。

万暦帝への感謝の念から、明朝滅亡後も朝鮮は崇禎帝の年号を使い続けました。清末に至っても、崇禎の年号を書き記す人がおり、「崇禎二百六十五年」という年号まで現れたほどです。

万暦帝が朝鮮を救援しなければ、清軍は関内に侵入できなかったかもしれないと言う人もいます。しかし、それは甘い考えです。もし日本が朝鮮で足場を築いていれば、その脅威は後金よりもはるかに大きくなり、関内に侵入したのは日本人だったかもしれません。

今日、多くの朝鮮の学者は万暦帝を偉大な皇帝とみなしています。万暦帝は中国の多くの皇帝の中で特筆すべき功績を残したとは言えませんが、彼がいなければ朝鮮は滅亡していたかもしれません。