【歴史秘話】土壇場で裏切り!?起義を企てた国民党将軍、間一髪の危機脱出劇!

1949年4月、武漢情勢は一触即発。白崇禧は南への撤退を急ぎ、一方の張軫は密かに起義を計画していた。老獪な将軍同士の駆け引き、最後に笑うのはどちらだ?

張軫:蒋介石に見捨てられた男が河南省主席に上り詰めるまで

張軫という男、なかなか面白い人物だ。若い頃は蒋介石の下で戦い、後に冷遇される。しかし、彼は諦めなかった。

張軫は戦の腕は確かで、北伐時代から頭角を現していた。しかし、程潜に従っていたため、蒋介石とはソリが合わなかった。案の定、張軫は苦労を強いられた。

しかし、張軫はただでは死ななかった。日中戦争が勃発すると、豫北でゲリラ戦を展開し、日本人を苦しめた。台児荘の戦いの後には、「運動戦第一」と評されるまでになった。これには湯恩伯も嫉妬し、張軫の部隊を奪い取ってしまった。

国共内戦が勃発すると、張軫は再び起用された。国民党は人手不足で、過去のことは気にしていられなかったのだ。張軫も運良く、河南省主席にまで上り詰めた。

張軫の計算:政治的資本を蓄え、巧みに立ち回る

河南省主席になった張軫は、じっとしてはいなかった。彼は頭の回転が速く、国民党が長くはないと見抜き、自分の身の振り方を考え始めた。

張軫の計算はこうだ。兵力を持っていれば、誰もが顔を立ててくれる。共産党が来れば起義を起こし、国民党がまだいればそのまま居座る。もし第三の道を行く者が現れても、恐れることはない。これはまさに、損をしない立ち回りだ。

この目標を達成するために、張軫は大規模な軍拡を開始した。わずか半年で10個の保安旅を組織し、兵力は4万人を超えた。その後、第19兵団に編成され、華中地区の一大勢力となった。

しかし、張軫のこのような動きを、蒋介石や白崇禧が見逃すはずがない。彼らは張軫を厳しく監視していた。張軫はまさに、刃の上を歩くような状況だったのだ。

張軫の躊躇:起義の時機はまだ来ていない?それとも度胸がないだけ?

張軫は以前から起義の考えを持っていたが、なかなか決心できなかった。なぜか?それは、できるだけ多くの利益を得ようとしていたからだ。

共産党から派遣された連絡員は20代と若く、張軫は格が低いと感じて相手にしなかった。後に派遣された李世璋は張軫とほぼ同格で、ようやく話が合うようになった。張軫は李世璋と起義について語り合ったが、条件は多かった。番号の保持、役職の保持、解放軍の領地からの撤退…まるで商談のようで、起義の誠意は感じられなかった。

張軫の煮え切らない態度に、共産党は焦りを感じていた。中原局の幹部はすぐに気づいた。「こいつは抜け目がない。慎重に対応しなければ。」

張軫がまだ迷っている間に、淮海戦役で国民党が大敗したという知らせが届いた。張軫は慌てて方敬之に連絡し、条件は問わないから、もう少し準備の時間を与えてほしいと頼んだ。

しかし、この時になっても、張軫はまだ計算していた。もし桂系の李宗仁、白崇禧が国民党内で足場を固めれば、重兵を抱える自分は、きっと利益を得られるだろう。もし共産党が勝てば、すでに忠誠を誓っているから、きっと手厚く扱ってくれるはずだ。もし李済深が第三の道を行くとしても、自分は居場所を見つけられるはずだ。これはまさに、日和見主義だ。

張軫の危機:進退を誤れば破滅する会議

1949年4月28日、武漢の空気は緊張に満ちていた。白崇禧は突然軍事会議を開き、全軍南への撤退を発表した。この知らせは青天の霹靂で、張軫の計画をすべて狂わせた。

白崇禧の配置は巧妙だった。桂系主力の第7軍が先頭、張軫の第19兵団の2個軍が中間、滇軍の魯道源の第58軍が殿を務める。この配置は一見普通だが、実は殺意が込められている。もし張軫が南下しなければ、前後から挟み撃ちにして簡単に殲滅できるのだ。

張軫は状況が不利だと判断し、すぐに起義を決意した。彼の考えはこうだ。まず白崇禧の南への撤退計画を混乱させ、手持ちの兵力で白崇禧を足止めし、解放軍が長江を渡ってから一緒に叩き潰す。

しかし、張軫は致命的な過ちを犯した。彼は、第58軍軍長の魯道源に起義のことを相談してしまったのだ。この魯道源は、すでに蒋介石に寝返っていたのだ!張軫の話を聞き終わると、魯道源はすぐに顧祝同に密告し、顧祝同はすぐに白崇禧に知らせた。

白崇禧は知らせを受けると、すぐに張軫を司令部に呼び出して「会議」を開いた。普通なら、このような状況で張軫が取るべき最善の選択は、知らないふりをすることだ。しかし張軫は、会議に出席すれば白崇禧を落ち着かせることができ、起義がよりスムーズに進むと考えた。それに、自分には数万の兵がいる。白崇禧に何ができるというのか?

張軫は、この会議に出席したことで、危うく命を落とすところだった。

白崇禧は会うなり、顧祝同の命令を突きつけた。すぐに張軫を拘束し、広州へ護送、全軍をその場で解散せよ、と。張軫はようやく、自分が信頼していた「友人」魯道源が、二枚舌の男だったことに気づいた。

幸い、張軫は機転を利かせ、部下に電話をかけるという名目で1時間の猶予を得た。白崇禧も、事を荒立てたくないと考えていた。万が一、張軫の部下の実力者である軍師長たちが騒ぎ出したら、厄介なことになる。しかし、この1時間が、張軫に逃げるチャンスを与えたのだ。

張軫は九死に一生を得て、胸をなでおろした。もし自分が拘束されていれば、長年計画してきた起義は水の泡となり、自分が築き上げてきた第19兵団も、白崇禧によって一網打尽にされていただろう。

しかし、張軫が安堵したのも束の間、さらに悪い知らせが届いた。白崇禧はすでに桂系第7軍を派遣し、第19兵団の司令部を襲撃、兵団部と5個直属営を武装解除していた。第127軍の2個師は南へ連れ去られ、独立師も内部に潜んでいた「内通者」師長の張旭東によって連れ去られた。たった1日で、張軫の7個師のうち、3個半が失われてしまったのだ!

張軫は後悔した。魯道源が頑固な男だと知っていたのに、なぜ彼を説得しようとしたのか?これが最初の過ちだ。起義が間近に迫っているのに、なぜ司令部を離れて白崇禧に会いに行ったのか?これが2番目の過ちだ。もし自分が司令部を離れていなければ、白崇禧は自分の部隊に手出しできなかっただろう。7個師で起義を起こした方が良かったのではないか?

張軫は私たちに教えてくれる。乱世においては、小賢しさだけでは足りない。彼は巧みに立ち回ろうとした結果、自らを危険に晒してしまった。最終的には起義を成功させたものの、その代償は決して小さくなかった。

この歴史が私たちに教えてくれるのは、重大な決断を迫られた時、躊躇するよりも決断することの方が重要だということだ。張軫がもっと早く決断していれば、このような狼狽ぶりを見せずに済んだかもしれない。また、身の回りの「魯道源」には警戒しなければならない。肝心な時に、小さな裏切りがすべてを台無しにする可能性があるのだ。

張軫は、多少なりともご都合主義的なところがあったが、最終的には正しい道を選んだ。彼の起義は武漢解放に重要な役割を果たし、彼自身も新中国で地位を確立した。これこそが歴史の魅力なのかもしれない。歴史は常に、過ちに気づいた人々に、やり直す機会を与えてくれるのだ。