「割地せず、和親せず、賠償せず」。これが明朝!中国史上最も強気な王朝の一つ。漢の和親、宋や清の割地賠償とは一線を画す、誇り高き王朝です。
もし明が滅亡せずに存続していたら、現在の中国の領土はそのまま維持されていたのでしょうか?あるいは、さらに拡大していたのでしょうか?
理想はそうかもしれませんが、歴史は残酷。明が存続していたとしても、現在の領土を維持できたとは限りません。むしろ、半分近くまで縮小していた可能性も…。その理由とは?
明の太祖・朱元璋は「天子は国門を守り、君王は社稷に殉ず」という族訓を定めました。この教えに従い、明の皇帝たちは勇敢に国を守り抜きました。明の首都を南京から北京に移したのは、まさに「天子守国門」のため。最後の皇帝・崇禎帝も、李自成軍に北京を攻め落とされた際、尊厳を守るために自害しました。これが「君王死社稷」です。
明の皇帝は皆、無能ではなかった…ように見えますが、実はそうではありません。初期の朱棣によるモンゴル遠征は、一時的な平和をもたらしましたが、鄭和の南海遠征は貿易を促進したものの、国力を大きく消耗させました。朱元璋による永楽大典の編纂は、科学技術の発展に貢献しましたが、これもまた莫大な費用を要しました。
明朝初期は安定していたものの、次第に内憂外患を抱えるようになり、国家は衰退の一途を辿ります。これが、明が滅亡しなかったとしても、領土が縮小する可能性があった理由です。
土木堡の変:国力を大きく損なう
朱祁鎮…彼には本当に腹が立ちます!明朝最悪の皇帝と言っても過言ではないでしょう。朱棣の時代に消耗した国力は、仁宗と宣宗の治世で回復しましたが、英宗・朱祁鎮は寵臣・王振の進言を鵜呑みにし、自らモンゴルのエセン・ハーン討伐に出陣。王振は軍事の素人同然。明の精鋭部隊は瓦剌軍に打ち破られ、朱祁鎮自身も捕虜となるという大失態を演じました。
この後、明は瓦剌との戦いを続け、朱祁鎮が解放されるまで、国力は大きく衰退。北方からの侵入も頻発し、領土の一部を失いました。もはや領土を拡大するどころか、現状維持に汲々とする状況だったのです。
国内政治の混乱:国本之争の泥沼化
土木堡の変以降、明は勢いを失い、神宗の時代には国本之争が発生。皇位継承をめぐる対立は、国家を再び疲弊させました。神宗は、寵愛する鄭貴妃の子・福王を皇太子にしようとしましたが、朝廷の大臣や皇太后の反対に遭い、15年もの間、議論が続きました。心身を疲弊させた神宗は、ついに朝廷に出席しなくなってしまいます。
皇帝が政務を執らなくなると、国家は混乱。万暦帝の時代、国家財政は逼迫し、宦官による過酷な徴税が行われ、民衆は苦しみ、不満が高まりました。明朝は、国内の不安定化、モンゴル族の襲撃など、危機的な状況に陥り、滅亡への道を歩んでいったのです。
明朝後期の増税と対外戦争
明朝初期から存在した藩王制度は、藩王に莫大な俸禄を与えていました。藩王は商業活動を禁じられていたため、その収入は国からの俸禄に頼るしかありませんでした。
明朝の年間歳入はわずか300万両。そのうち100万両が藩王に支払われていました。藩王は何の生産活動も行わず、ただ俸禄を消費するだけ。国家財政は常に逼迫し、軍隊への給与も不足する事態に。そのため、民衆への増税を余儀なくされ、災害による不作も重なり、民衆蜂起が多発しました。
崇禎帝・朱由検は懸命に改革を行いましたが、国内の農民反乱、国外からの金(後の清)の脅威に晒され、明朝は内憂外患の状態に。李自成軍が北京を陥落させたことで、ついに滅亡を迎えることになりました。
明朝の皇帝は勇敢でしたが、国家は常に不安定でした。制度上の問題、皇帝と民衆の関係悪化、外敵の脅威…これらの要因が重なり、明朝は滅亡への道を辿ったのです。
もし明朝が滅亡しなかったとしても、腐敗は進み、領土は縮小の一途を辿ったでしょう。外敵の侵攻を防ぐことができず、国家は衰退していったと考えられます。