映画『西安事変』にも描かれた、張学良と楊虎城の交流。張学良が「楊虎城の部下で秘書の南漢宸は共産党員だ」と告げると、楊虎城は「君は五全大会の後、杜重遠を見舞った」と返す。二人は微笑み合い、固く手を握り合った。
蒋介石のために馮玉祥を打ち破り、西北軍17路軍総指揮となった楊虎城。「九一八事変」後、30万の東北軍を率いて関内に逃れ、後退を余儀なくされた張学良。互いに苦衷を抱え、内戦を望まず、抗日を願う二人は、どのようにして壁を乗り越え、協力関係を築いたのだろうか?
1. 1935年、張学良は南京政府の意向に従い、東北軍を率いて陝西省に進駐。楊虎城の地盤に入り、後に張学良は南京国民政府西北「剿匪」総司令に就任。張学良と蒋介石は義兄弟の契りを結んでいたため、楊虎城は当初、張学良を警戒していた。しかし、東北人である張学良は率直な性格で、蒋介石の派遣という立場を利用して、地元の楊虎城の西北軍を虐げるようなことはなかった。自身の警護も非常に簡素で、楊虎城を深く信頼していた。英語を話し、テニスをし、自ら飛行機を操縦する張学良に、楊虎城は興味を持つ。楊虎城はテニスはできなかったが、バドミントンが得意で、二人は頻繁にバドミントンを通じて親睦を深めた。しかし、「抗日」「紅軍討伐」などのデリケートな話題には触れなかった。
2. 重要な人物たちの後押し。張学良には杜重遠と高福源、楊虎城には南漢宸という重要な人物がおり、彼らの思想に大きな影響を与えた。杜重遠は、蒋介石政府の独裁的な性格を見抜き、共産党との協力による抗日を望んでいた。1935年の国民党五大終了後、張学良は上海の病院で療養中の杜重遠を見舞い、歓談した。杜の言葉は、張学良に内戦を望まないという気持ちをさらに強くさせた。東北軍団長の高福源は、紅軍との戦いで捕虜となり、延安で手厚い待遇を受けた。西安に戻った後、張学良に会って、自分の経験を語り、張学良を説得した。西安事件の和平解決にも大きく貢献した。
後に新中国人民銀行総裁となる南漢宸は、楊虎城の秘書兼顧問であり、何度も楊虎城に抗日と内戦停止を説いた。楊虎城の側近には共産党員も多く、西北軍の政治宣伝や楊虎城本人への説得は、西北軍に大きな影響を与えた。周恩来自身も西安を訪れ、張学良、楊虎城と親しく交流し、事件の和平解決と抗日民族統一戦線の樹立を促進した。
二人は性格が近く、祖国を愛する気持ちが強く、抗日を願っていた。蒋介石とは多少の対立があり、紅軍への攻撃が何度も阻まれ、戦力を消耗していた。南京政府は補充を拒否し続けた。大局を前に、抗日は必須であり、国家の存亡がかかっていた。二人は徐々に壁を乗り越え、互いの胸の内を明かし、協力し合うことで、内戦の停止と全面的な抗日につながった。二人とも有名な愛国将軍である。