「名将大師自ら牢と為すこと莫れ、千軍万馬、白袍を避く」とは、南梁の名将・陳慶之のことを指します!一体どんな功績を残したのか?
早年期の苦労人
陳慶之は、字を子雲といい、貧しい家に生まれました。幼い頃から梁の武帝・蕭衍に仕えましたが、彼はチェスが好きで、夜通し付き合わされるのが常でした。興味のあることなら徹夜も苦になりませんが、そうでなければ辛いですよね。陳慶之はどんな時でも付き合い、重宝されたのです。蕭衍が皇帝になると、陳慶之は主書に任命され、後に朝奉請という役職に就きました。
陳慶之は伝統的な文人であり、高い理想と抱負を持っていましたが、当時の貴族社会では、貧しい者が頭角を現すのは非常に困難でした。皇帝の寵愛を受けても、なかなか出世できなかったのです。
運命の転換
公元525年、北魏の徐州刺史・元法僧が反乱に失敗し、梁に帰順を求めました。陳慶之は自ら志願して軍を率いて迎えに行き、蕭衍や朝廷の人々を驚かせました。当時の陳慶之はすでに41歳で、過去40年間は文官として過ごし、弓を引くことも、馬に乗ることもできませんでした。しかし、蕭衍は最終的に陳慶之を武威将軍に任命し、胡龍牙、成景俊と共に梁軍を率いて迎えに行かせ、見事に任務を達成しました。これを機に、陳慶之は「筆を捨てて戦場へ」という軍人としての人生を歩み始め、世間を驚かせたのです。
天下に轟く
公元528年、北魏の北海王・元顥が、国内の混乱を理由に梁に降伏し、梁に兵を出して北へ帰還し、皇帝の位に就くことを求めました。梁の武帝は彼を魏王に封じ、陳慶之を飆勇将軍、仮節に任命し、兵馬7千を率いて元顥を北へ護送させました。
「たとえ相手が何千万人であろうとも、私は行く」陳慶之は、ほとんど不可能とも思える任務を引き受けました。彼はまだ知りません。彼の名が間もなく中原の地に響き渡ることを。
滎城の戦いでは、魏軍の守将・丘大千が7万の大軍を率いて九つの砦を築いて抵抗しましたが、陳慶之は軍を率いて攻撃し、わずか一日でそのうち三つを攻略しました。丘大千は恐れをなし、部下を率いて降伏しました。
考城の戦いでは、元暉業が2万の兵を率いて駐屯しました。考城は四方を水で囲まれており、守りやすく攻めにくい地形でしたが、陳慶之は水面に塁を築き、城を破り、元暉業を生け捕りにして敵軍を全滅させました。
滎陽の戦いでは、30万の敵軍を前に、陳慶之は自ら太鼓を叩いて士気を高め、一回の太鼓の音で梁軍は城壁を攻め上り、滎陽を打ち破りました。
その後、上党王・元天穆が軍を率いて城を包囲しましたが、陳慶之は城下でこれを打ち破り、勢いに乗じて虎牢関を占領しました。北魏の皇帝・元子攸はこれを聞き、大臣に囲まれて慌てて都を捨てて黄河を渡りました。陳慶之は機に乗じて元顥を洛陽に送り込みました。
その後まもなく、北魏が反撃を開始しました。陳慶之は軍を率いて中郎城に駐屯し、爾朱栄と3日間戦い、大きな損害を与えました。その後、爾朱栄は中郎城を迂回し、元顥の10万の大軍を打ち破り、元顥は逃亡中に捕らえられ、洛陽は陥落しました。
一方、陳慶之の部隊も高琳に敗れましたが、それでも数千人の兵が残っていました。元顥はすでに敗れ、洛陽は陥落し、留まる意味はないと考えた陳慶之は、部隊を率いて南へ帰還しました。しかし、「泣きっ面に蜂」とはこのことか、山洪が発生し、渡河中の梁軍は全滅し、陳慶之はただ一人助かり、南梁へ逃げ帰りました。
史書によると、陳慶之は部隊を率いて铚県から洛陽まで、大小47回の戦いを経て、32の城を攻略し、通過する場所はすべて打ち破ったと言われています。これがネット上で「七千で百万を破った」と言われる所以であり、彼の一生で最も輝かしい功績でしょう。