唐の時代、文化交流は非常に盛んで、多くの人々が華夏文化を周辺国へ伝えました。中でも有名なのは、三蔵法師こと唐玄奘でしょう。しかし、彼以外にもう一人、伝説的な外交官がいたことをご存知でしょうか?その名は王玄策。彼はなんと三度も古代インドへ派遣され、多大な貢献を果たしたのです。
民間の伝承では、王玄策はたった一人で天竺国(古代インド)を征服したとも伝えられています。そんな英雄の偉業を物語る石碑が、チベットで発見されたのです!一体何が書かれているのでしょうか?
1994年、考古学調査隊がチベット自治区の吉隆県で石碑を発見しました。標高4130メートルという、チベットに現存する石碑の中でも最も高い場所に位置しています。
石碑には「大唐天竺使出銘」という七文字が刻まれており、風化によって一部の文字は判読困難ですが、約220字が残っています。
専門家による解析の結果、この石碑は公元658年に刻まれたものであり、王玄策が劉嘉宾や賀守一らと共に困難を乗り越え、天竺国へ派遣された際に吉隆を通過したこと、そしてその功績が記されていることが判明しました。
この発見に、専門家たちは驚愕!「伝説上の人物だと思っていた王玄策は、本当に存在したんだ!」
さらに、民間で語り継がれてきた王玄策による天竺国征服も、単なる伝説ではなく、実際に起こった出来事である可能性が高まりました。
史書によると、王玄策はわずか30人の兵を率いて天竺国へ派遣され、その後、天竺国を征服したとされています。これは石碑の記述とも一致し、王玄策が古代インドとの交流を深め、華夏文化を伝えたことを裏付けています。
『旧唐書』には、「王玄策が帝那伏帝国を撃破し、王妃や王子を含む1万2千人の男女、2万頭以上の牛馬を捕虜にした」という記述があります。
王玄策が天竺国に到着した際、先代の王が亡くなり、大臣のアロナ順が王位を簒奪しようとしました。アロナ順は自らの地位を固めるため、王玄策らと交戦。王玄策は貢物を奪われ、わずか一人で吐蕃へ逃れました。そこで彼は唐の役人として1200人の兵士と7000騎兵を借り受け、天竺国へ攻め込み、アロナ順を打ち破り、天竺国を征服したのです!
しかし、王玄策が唐へ帰還した後、朝廷からの褒美はごくわずかでした。正史にも彼の碑は建てられず、称賛されることもありませんでした。
一部の外国人は、中国の歴史書を疑っており、王玄策のような身分の低い役人が天竺国を征服できるはずがないと考え、彼の存在自体を疑っていました。
しかし、チベットで発見された石碑は、王玄策の存在と彼の偉業を証明するものとなりました。現在、石碑は大切に保護されています。
長城君曰く:チベットの石碑の発見から王玄策の功績の認識まで、唐の強大さと中国の歴史書の信憑性を反映しています。王玄策は単なる御史でしたが、彼の立てた功績は唐の国力を示しています。このような功臣を、私たちは永遠に語り継いでいきましょう!
参考資料:
『旧唐書』
『大唐天竺使出銘』
『資治通鑑』
『新唐書』
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