1949年初頭、解放軍は歴史的な再編を行っていた——全軍の野戦部隊が兵団編成で再組織されたのだ。
16人の兵団司令官は、皆、戦功著しく、戦場を駆け抜けた猛将たちだった。しかし、その中に、我々の認識を覆す人物がいた。それが鄧華——兵団司令官のイメージとはかけ離れた人物だ。
一縦司令の李天佑や二縦司令の劉震といった猛将と比べると、鄧華の過去の経歴は理解しがたい。なぜ政治幹部としてスタートした紅軍の古参兵が、これほど重要な軍事ポストに選ばれたのだろうか?
▶四野の「幸せな悩み」
四野の兵団司令官は、皆、戦場の英雄だった。李天佑から劉震、そして胡奇才まで、皆が鉄血の戦士であり、彼らの戦功は戦争史に輝いている。
では、鄧華は?政治幹部としてスタートし、数々の苦難を乗り越え、多くの政治的役職を歴任した。なぜ彼が頭角を現し、第十五兵団の司令官になれたのだろうか?
四野には猛将が雲のようにいる。李天佑のような将軍は、平型関大捷で輝かしい戦功を立てた。韓先楚のように、彼は各大戦役で勇敢果敢な活躍を見せた。
鄧華は、これらの猛将の前では極めて平凡に見える。彼は「紅一出身」という古い肩書きだけで今の地位を得たと指摘する人もいた。しかし、それだけでは、鄧華が司令官の座に上り詰めた理由を説明することはできず、むしろその深意を見過ごしてしまう。
一点確かなことは、単純な「年功序列」は通用しないということだ。李天佑の年功は鄧華よりも間違いなく上だ。なぜ彼がこの地位を得られなかったのだろうか?
問題の根源は、鄧華が「チームをまとめる」という点における独特の能力にあるのかもしれない。
▶鄧華の「強み」
どんなチームでも、成功するためには、二種類の幹部が必要だ。一つはチームを率いることができる人材、もう一つは激戦を戦い抜くことができる人材だ。鄧華はまさに、チームを率いることができる最高の「リーダー」だった。彼の指揮下で、七縦はゼロからスタートし、わずかな期間で、千人にも満たない警備旅団から、強力な縦隊へと発展したのだ。
この歴史について語ると、古参兵たちは、この「政治幹部」が戦略的視点を持ったリーダーだったと感嘆する。
鄧華の成功は、彼がチームを率いることができ、既存の「兵力優位」に頼らず、最初から自分の部隊のために確固たる基盤を築いたことにある。
こう理解することもできる。鄧華は、新兵を育成することに長けた「コーチ」のような存在であり、最も基礎的な土地改革、政権建設、軍隊の再編を通して、バラバラの部隊を組織し、徐々に強大な戦闘力を育て上げていったのだ。
この過程をサッカーの試合に例えるなら、鄧華は優れたコーチであり、「何の強みもない」チームを率いて、丁寧な訓練とチームスピリットを通して、自分よりも強い相手を打ち負かすことができる。そして、この点が、他の猛将たちに欠けていた点なのだ。
▶慎重で手堅い戦闘スタイル
しかし、鄧華の強みはチームを率いることだけではない。彼の戦い方における独特のスタイルもまた、人々を感服させる。李天佑のような猛将の、直接突撃し、向かうところ敵なしというスタイルとは異なり、鄧華の作戦スタイルは、慎重で手堅く、完璧を求めるものだった。
例えば、彼は東北戦場における三戦四平で、その点を明確に示した。
1947年、四平の戦いは重要な段階に入っていた。当時、東野の指揮官である李天佑は、勝利を確信しすぎており、兵力配分でミスを犯した。
鄧華は、ここで他の人とは違う冷静さを見せ、重要な提言をした——敵情偵察を徹底し、敵我の戦力比をできる限り把握し、盲目的な攻撃は避けるべきだと。この慎重な態度は、最終的に東総が正確な敵情を把握するのに役立ち、その後の作戦指揮に貴重な情報を提供した。
鄧華のこのような慎重さは、保守的すぎるとか、果敢な決断力に欠けると考える人もいるかもしれない。しかし、現代戦に近づけば近づくほど、このような冷静さと慎重さが不可欠になってくる。
大規模な失敗の多くは、指揮官が敵の力を過小評価したり、軽率な行動をとったりした結果、取り返しのつかない損害をもたらしたことが原因であることが多い。
鄧華が見せた手堅いスタイルは、従来の「猛将」のイメージとは正反対であり、このことが彼の最終的な成功への伏線となったのだ。
▶命令違反の戦い、奇跡を起こす
1947年10月、鄧華は再び東北戦場で常識を覆し、「命令違反の戦い」によって、戦略的な目標を大幅に上回る成果を達成した。当時、東総の命令は、七縦に新民—黒山一帯で防御を担当させ、国民党軍の主力である新六軍の北上を阻止することだった。任務は平凡に見えた——新六軍が北進しなければ、七縦は安心して待機していればよかった。しかし、鄧華は新六軍に北上の意図がないことに気づき、大胆な決断を下した——積極的に攻撃することにしたのだ。
鄧華は七縦を指揮し、上級部隊の制限を突破し、法庫、彰武など6つの都市を占領し、国民党軍の3つの暫編師団を殲滅した。特に法庫戦役では、七縦が180里を急行軍し、わずか1時間で敵軍を全滅させた。想像できるだろうか?一兵団が、敵が強く、こちらが弱い状況下で、これほど巧妙な戦術を用いて、これほど大きな勝利を収めたのだ。
この戦いで、鄧華は自身の軍事的才能だけでなく、比類なき戦略的視点を示した。敵軍が情勢を誤っている時に、彼は好機を見抜き、果敢に攻撃し、予想以上の効果を上げたのだ。
▶「政治幹部」から兵団司令官へ
鄧華の成功は、決して偶然ではない。林羅首長が言ったように、鄧華の強みは軍事指揮だけではなく、彼の人格的魅力と総合的な能力にある。彼は戦場において独特の作戦スタイルを持っているだけでなく、組織、調整、チームを率いるといった面でも、非凡な才能を発揮した。鄧華の成功は、彼の総合的な資質の現れなのだ。
他の四野の兵団司令官と比較すると、鄧華は李天佑ほど鋭くなく、梁興初ほど剛毅ではないかもしれない。しかし、彼の慎重で手堅く、包括的な作戦スタイルは、まさに四野が特定の重要な瞬間に欠けていたものだった。最終的に、彼のこれらの強みが、四野の成功の鍵の一つとなったのだ。
鄧華の物語は、私たちにこう教えてくれる。戦争では、「猛さ」だけでは十分ではなく、知恵と戦略の深さが勝敗を左右することが多い。この偉大な歴史的戦いにおいて、鄧華は彼なりの方法で、「政治幹部」でもトップレベルの軍事指揮官になれることを証明したのだ。
これこそが、彼の真の歴史的価値なのだ。