三国志演義に登場する孫尚香。劉備との政略結婚、そして突然の帰還…彼女の年齢や出自には多くの謎が残されています。孫堅の死後、孫権が幼い頃に生まれた孫尚香は、本当に孫堅の娘なのでしょうか?
(一)孫尚香の謎
三国志演義によれば、孫尚香は赤壁の戦いの後、劉備が荊州南部を占領した頃に劉備に嫁ぎました。当時、劉備は48歳、孫尚香は16歳。しかし、孫権は182年生まれ、孫堅は192年に亡くなっており、計算が合いません。一体、孫尚香は誰の娘なのでしょうか?
孫堅が既に亡くなっている時期に生まれた孫尚香。東呉の覇者である孫堅の血を引く娘として、誰が彼女を孫家の一員として認めさせたのでしょうか?実は、三国志演義には孫尚香という人物の出生に関する明確な記述はないのです。
(二)孫夫人とは?
三国志演義は小説であり、史実とは異なる点が多く存在します。例えば、諸葛亮の北伐の回数や空城の計の真偽など、様々な逸話が創作されたものです。孫尚香もまた、架空の人物である可能性があります。
正史には、孫権が妹を劉備に嫁がせたという記述はありますが、その妹が姉なのか妹なのか、名前も不明です。彼女は「孫夫人」と呼ばれていました。孫夫人が孫権のどの姉妹なのかは、長年議論の的となっています。
孫夫人は孫権の庶出の姉妹であるという説が有力です。正史によれば、孫権には2人の姉と1人の妹がいたとされていますが、誰が嫁いだのかは不明です。また、孫権の母である呉夫人が産んだのは、4人の息子と1人の娘のみ。嫡出の娘を劉備に嫁がせるのは惜しかったため、庶出の娘が選ばれたと考えられます。
しかし、孫夫人の待遇を見ると、「権妹以って驕豪なり」「侍婢百余人」と、非常に手厚く扱われています。帰還の際も、孫権が大規模な船団を派遣して迎え入れています。これは庶出の娘には考えにくい待遇であり、孫権の実の妹であった可能性も否定できません。
このように、孫夫人の出自には多くの謎が残されています。孫尚香という名前は、後世の創作によって生まれたのかもしれません。