【衝撃】孫権の皇帝即位はなぜこんなに気まずかった?誰もが笑った裏事情を大暴露!

三国志の時代、英雄たちが覇を競い合う中で、皇帝を名乗ることは一大事でした。

曹丕、劉備、孫権。この三人の皇帝即位の道のりはそれぞれ異なり、特に孫権の即位はなぜこれほどまでに物笑いの種になったのでしょうか?その裏には深い事情があったのです。

孫権自身が気まずく感じていたからこそ、後世の人々も同じように感じたのでしょう。その真相に迫ります。

まずは曹丕から。父・曹操は東漢末期に絶大な権力を握り、丞相から魏王へと上り詰め、皇帝即位の準備は万端でした。しかし、その夢を果たす前に亡くなってしまいます。

後を継いだ曹丕もまた、只者ではありませんでした。九品官人法を制定し、豪族たちとの利益交換を行い、皇帝即位のための政治基盤を固めます。

そして、表向きは「平和的な」禅譲劇が繰り広げられます。曹丕は強硬手段で献帝を廃位するのではなく、王朗などの家臣に献帝を説得させたのです。

献帝もやむなく退位。曹丕は何度も辞退するそぶりを見せながら、最終的には「仕方なく」禅譲を受け入れました。

この過程は、古代の禅譲の伝統に則っているように見えますが、実際は偽善と欺瞞に満ち溢れており、後世からは政治的な茶番劇と見なされています。

しかし、曹丕は父・曹操が築いた基盤と、一見合法的な禅譲という手続きを経て、魏を建国することに成功しました。封建的な正統性の観点から見れば、漢王朝との形式的な繋がりを保ったと言えるでしょう。

一方、劉備は自らを中山靖王・劉勝の子孫と称し、漢室の復興を掲げていました。彼の皇帝即位の道も、独自の論理に基づいています。

劉備は常に漢室の復興を己の使命とし、皇族の血筋は献帝にも認められていました。これは、お墨付きを得たようなものです。

曹操が魏王を名乗り、異姓の王を認めないというルールを破った後、劉備は漢中王を自称します。この時、彼は天下を狙う野心と、そのための準備を整えていました。

曹丕が皇帝を名乗り、漢王朝が正式に滅亡すると、劉備は漢室の末裔として、漢室の江山を受け継ぐ責任があると考えました。

そして翌年、彼は迷うことなく皇帝を名乗り、国号を「漢」としました。

劉備にとって、これは天命に従い、漢室の正統性を回復させる必然的な行動でした。

皇族の血筋という生まれながらの強みを活かし、蜀の地に大漢の旗を掲げ、多くの漢室に忠誠を誓う人材や民衆の支持を集めました。

しかし、孫権の皇帝即位の道は、特に複雑で気まずいものでした。

孫権はかつて、曹丕から呉王の称号を授けられていました。この称号は、彼にとって永遠の痛手となったのです。

曹丕からの冊封の勅命が届くと、東呉の内部は大騒ぎになりました。

張昭は悔しさのあまり涙を流し、曹丕を蹴り飛ばしたいとまで言い放ちました。孫権自身も屈辱を感じていました。江南の一大勢力である東呉が、曹魏の冊封を受けなければならないのは、弱みを見せる行為に他ならなかったからです。

当時の情勢として、東呉は魏蜀に比べて絶対的な優位性を持っておらず、魏蜀の狭間で生き残るためには、一時的に頭を下げる必要があったのです。

皇帝を名乗ることについても、孫権は迷っていました。血筋から言えば、漢室とは何の関係もなく、劉備のように皇族の末裔を名乗ることはできません。

禅譲についても、曹丕のような政治的な資本も手続きも持ち合わせていませんでした。

東呉の家臣たちは孫権に皇帝を名乗るように勧めました。魏蜀が既に皇帝を名乗っている以上、東呉だけがいつまでも卑屈な立場に甘んじているわけにはいかないからです。

しかし、孫権はその危険性を十分に理解していました。魏蜀の間を巧みに立ち回ることで東呉を保ってきたが、皇帝を名乗れば、その微妙なバランスが崩れ、東呉が危険な状況に陥る可能性があると考えたのです。

そのため、彼は耐え忍ぶことを選びました。その期間は7年にも及びます。

この7年間、孫権は魏蜀との関係を慎重に維持しました。曹魏に臣従し、貢物を納めることで一時的な平和を保ちました。

同時に、蜀漢との関係も維持し、双方が完全に決裂することを避けました。

そして、東呉と蜀漢の関係が徐々に改善された頃、孫権はついに皇帝を名乗ることを決意します。

皇帝を名乗った後、彼は使者を蜀漢に派遣し、一見すると荒唐無稽な提案をしました。

それは、蜀漢が東呉を承認し、東呉も蜀漢を承認し、双方が協力して曹魏に対抗するというものでした。まるで、天下に二人の皇帝が並び立つことができるかのような考えです。

これは、伝統的な帝国の概念に対する大きな挑戦でした。古来より、天に二つの太陽はなく、国に二人の君主はいないからです。

しかし、諸葛亮は蜀漢の現実的な状況を考慮し、蜀漢の力だけでは曹魏に対抗できないことを知っていました。また、呉と手を結び、曹魏に対抗することは、蜀漢の基本的な戦略でした。

そのため、諸葛亮は孫権の提案を受け入れました。これは、以前では考えられない決断でした。

孫権の皇帝即位の道のりを振り返ると、彼の気まずい立場は明らかです。

呉王の称号を与えられた屈辱から、皇帝を名乗る際の名分のなさまで、彼は常に正統性の瀬戸際に立たされていました。

曹丕の禅譲や劉備の皇族の血筋と比べると、孫権には人々を納得させるだけの皇帝即位の根拠が欠けていました。

彼は、自身の政治的な知恵と権謀術数によって、三国の複雑な情勢の中で生き残り、発展を遂げたのです。

しかし、このような苦境の中で生き抜いた経験こそが、孫権の卓越したリーダーシップと忍耐力を示しています。

魏蜀の圧力の下、東呉を成長させ、最終的に皇帝即位の目標を達成したのです。物議を醸したものの、乱世の英雄の一人と言えるでしょう。

彼の統治の下、東呉は経済的に繁栄し、文化も隆盛を極め、水軍は天下無敵となりました。

彼の皇帝即位は、長い間物笑いの種にされましたが、三国時代の歴史において東呉に確固たる地位を築き、三国鼎立の格局に欠かせない存在となったのです。