時代劇ファン必見!「康熙王朝」や「孝庄秘史」でお馴染みの蘇麻喇姑(スマラ・ラグ)って、ただの侍女じゃなかった!?康熙帝が彼女を特別扱いした理由、知ってる?死後、なぜ「嬪」という高い身分で葬られたのか…その裏には、想像を絶するドラマがあった!
1612年、貧しい遊牧民の娘として生まれた蘇麻喇姑。彼女の人生は、孝庄太后(当時は布木布泰)の侍女になったことから大きく動き出す。満蒙文字に堪能で、聡明だった彼女は、孝庄太后の右腕として、後宮での地位確立に貢献!
皇太極の死後、幼い順治帝が即位すると、権力を握ったのは摂政王ドルゴン。孝庄太后はドルゴンとの駆け引き、そして順治帝との密かな連携を、蘇麻喇姑を通じて行ったと言われている。孝庄太后がドルゴンに下嫁したのか…歴史の謎を解く鍵は、彼女の口の中にあったのかもしれない!しかし、その秘密は、墓の中に持ち去られた…
60年以上もの間、孝庄太后と姉妹のように過ごした蘇麻喇姑。順治帝は彼女を「平輩」として扱い、康熙帝は「額娘(エネ:お母さん)」と呼んだ!彼女の地位は、ドラマで描かれるような単なる侍女ではなかったのだ。
康熙帝が生まれた後、孝庄太后は蘇麻喇姑に教育係を任せる。康熙帝が天然痘にかかった際も、献身的に看病し、命を救った。幼い康熙帝にとって、蘇麻喇姑は唯一無二の存在だったのだ。「父母の膝下で一日も甘えられなかった」と語る康熙帝にとって、彼女は母親同然だった。
孝庄太后の死後、康熙帝は悲しみに暮れる蘇麻喇姑に、十二皇子胤祹(イント)の養育を託す。これは、嬪以上の位を持つ者しか許されない異例の措置!康熙帝の信頼の厚さが伺える。胤祹は、蘇麻喇姑の教えを守り、権力争いを避け、長寿を全うした。
蘇麻喇姑は、手先が器用で、頭脳明晰。皇太極の時代には、冠服のデザインにも携わった。また、サマニズムの教えを守り、年に一度しか入浴せず、そのお湯を飲むという奇妙な習慣も!後宮で公然と密教儀式を執り行うことも許された。
生涯独身を貫き、薬を一切飲まなかった蘇麻喇姑。93歳という長寿を全うし、1705年にその生涯を閉じた。康熙帝は、彼女の死に深く悲しみ、自らが帰還するまで葬儀を延期させた。葬儀には、多くの皇子が参列し、彼女を弔った。
侍女という身分でありながら、皇室から家族同然に扱われた蘇麻喇姑。太祖、太宗、世祖、聖祖の四代に仕え、嬪の礼で葬られた彼女は、中国史上最も地位の高い宮女の一人と言えるだろう。(参考文献:《清史稿》、《嘯亭续录》)
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