古代中国、皇帝が崩御すると、後継者や臣下は諡号を定める重要な任務を担いました。
諡号は皇帝の生涯を凝縮したもので、功績、悪行、人柄、才能などを短い言葉で表現します。
歴史に名を刻む皇帝は数多く、諡号も多種多様ですが、その中でも際立って異彩を放つのが「大皇帝」です。
「大帝」という称号は、ヨーロッパで偉大な功績を上げた君主への敬意として用いられてきました。
そのため、「漢武大帝」「康熙大帝」「プーチン大帝」といった呼称は、ヨーロッパの慣習を模倣し、自国の君主を誇張表現していると捉えられがちです。
しかし、中国古代において「大帝」は元々、人間を指す言葉ではありませんでした。皇天大帝、玉皇大帝、昊天大帝といった神々を指す言葉だったのです。
司馬遷の『史記』に登場する「大帝」は、当時の人々が崇拝した天神を意味します。神聖な称号であり、一般人が名乗ることは考えられませんでした。
しかし、歴史上ただ一人、この神聖な称号を名乗った人物がいます。それは三国時代の呉の初代皇帝、孫権です。
三国志に登場する英雄の中で、孫権は突出した才能や武勇を誇るわけではありませんでした。しかし、忍耐力においては誰にも引けを取りませんでした。
曹操でさえ「息子を持つなら孫仲謀(孫権の字)のような息子が良い」と称賛したほどです。
孫権は182年に孫堅の次男として生まれました。父の孫堅は下邳県の県丞という地方官でした。
幼少期、孫権は父の戦いに付き従い、落ち着かない生活を送りました。9歳の時、父の孫堅が劉表討伐で戦死。
兄の孫策が父の遺志を継ぎ、各地を転戦しました。
15歳になった孫権は兄に従い、陽羡県の県長に任命されるなど、徐々に才能を発揮し始めます。
18歳で兄の孫策が暗殺されると、孫権は孫氏の事業を受け継ぎ、乱世に身を投じることになります。
江東は一見統一されていましたが、内部は不安定でした。地方豪族は独自の思惑を持ち、外部からの勢力も虎視眈々と機会を狙っていました。
若くして権力を握った孫権に対し、人々は不安を抱き、反乱が頻発。孫皓による簒奪の企てもあり、まさに内憂外患の状態でした。
しかし、孫権は困難に屈することなく、国政に励みます。周瑜を兄のように信頼し、程普や呂範といった老将を重用。
政治においては張昭を師とし、有能な人材を積極的に登用しました。
身分に関わらず、才能のある者は積極的に採用し、魯粛や諸葛瑾らを配下に加え、着実に国内を安定させていきました。
孫権の運命を大きく左右したのは、赤壁の戦いです。
曹操率いる大軍が迫り、東呉の臣下たちは降伏を主張。孫権は決断を迫られます。
降伏して安泰を得るか、徹底抗戦するか。苦悩の末、孫権は周瑜や魯粛らの主張を支持し、曹操との決戦を決意します。
呉の連合軍は火攻めによって曹操軍を打ち破り、江東の地を守り抜き、三国鼎立の基礎を築きました。
しかし、戦後、事態はさらに複雑化します。
孫権は戦果拡大を狙い、合肥を攻めますが、毎回大敗を喫してしまいます。
劉備は益州を占拠し勢力を拡大。かつて孫権から借りた荊州を返還しようとしませんでした。
両者の関係は悪化の一途を辿り、一触即発の状態に陥ります。曹操が漢中へ侵攻したため、劉備は背後を突かれることを恐れ、孫権と和睦します。
その後も孫権は合肥を攻めますが、張遼に打ち破られ、命からがら逃げ出す羽目になります。
この失態から、孫権は「孫十万」と揶揄されるようになりました。
220年、曹操が病死。同年10月、曹丕が皇帝に即位します。
翌年、劉備も皇帝を名乗ります。魏と蜀が建国に奔走する中、孫権は統治基盤を固めるため、都を公安から鄂州へ遷し、武昌と改名。
呉王の称号を得るために、かつての勾践にならい、曹丕に臣従しました。これに激怒した劉備は、関羽の仇を討つため、孫権討伐に乗り出します。しかし、陸遜率いる呉軍は夷陵の戦いで劉備軍を打ち破ります。
この戦いを経て、孫権の呉は領土を拡大し、皇帝即位への足掛かりを築きました。
しかし、束の間の平和は終わりを告げます。222年、曹丕は孫権に裏切られたことに気づき、呉への侵攻を開始。
一進一退の攻防が続き、両者は大きな利益を得られず、翌年には国交を断絶します。
この事件を経て、孫権と劉備は乱世を生き抜くためには協力が必要不可欠であると悟り、再び手を結びます。
228年、孫権は石亭の戦いで勝利を収め、自信を深めます。
翌年、ついに皇帝に即位し、呉を建国しました。
しかし、皇帝即位後の孫権は、政治、軍事において目覚ましい成果を挙げることはありませんでした。
太子の孫登が亡くなると、後継者争いが激化し、呉は内紛の泥沼に陥っていきます。
250年、孫権は孫和を廃し、孫覇を処刑、孫亮を太子に立てるという、予想外の決断を下します。
2年後、孫権は中風で亡くなりました。享年71歳、在位24年。諡号は「大皇帝」、廟号は太祖。
孫権の生涯は苦難の連続でした。71歳という長寿を全うし、暗殺や簒奪されることなく天寿を全うしたのは、稀有な例と言えるでしょう。
在位中は呉を安定させ、三国の一角として確立しました。
同時代の劉備の諡号は「昭烈皇帝」。「昭」は光明、顕著を意味し、「烈」は功業の偉大さ、剛直さを表します。劉備の生涯、漢室復興への熱意、奔走ぶりをよく表しています。
曹操は生前皇帝を名乗らず、息子の曹丕が魏の武帝として追尊しました。「武」は軍事的な才能を表し、北方を統一した曹操の功績を称えています。
しかし、孫権の「大皇帝」という諡号は、劉備や曹操の諡号とは一線を画しています。
「大」という文字は、孫権の偉業を強く印象づけ、歴史上唯一の「大皇帝」という称号を特別なものにしています。