1938年春、
皖南岩寺の夜、400人余りの
「乞食軍団」
が静かに出発した。彼らはぼろぼろの服を着て、古い銃を持ち、中には大刀や槍を担いでいる者もいたが、指揮官の粟裕に率いられ、日本軍の心臓部である蘇南の敵後方へと進んだ。
彼らは
「新四軍先遣支隊」
であり、今回の任務は日本軍を牽制し、江南の抗戦への自信を再構築することだった。
しかし、誰もが知っていた。彼らが直面しているのは凶悪な日本軍だけでなく、荒れ果てた土地と絶望に染まった民衆であるということを。
1937年冬、粟裕は浙江省で偶然にも「旧知の仲」である国民党浙江省主席
黄紹竑
(hóng)に出会った。二人はかつて宿敵だった。4年前、黄紹竑は粟裕の率いる紅軍遊撃隊を包囲し、冷酷な手段を用いた。
今や、日本軍の鉄蹄が杭州を踏みにじり、国共両党は手を組むことを余儀なくされた。黄紹竑は粟裕を見るなり、「お前の遊撃隊は、私の敗残兵よりもマシに見える!」と嘆いた。
黄紹竑の状況は絶望的だった。彼はつい先日、山西省の娘子関で日本軍に惨敗し、配下の四川軍は
「穴埋め式戦法」
で消耗し尽くされていた。
浙江省に戻ると、目の前には敗残兵が蔓延し、交通は麻痺し、省都の杭州さえ陥落していた。絶望の中、彼は粟裕の遊撃総隊、つまり500人の部隊に目をつけた。
彼らは装備は遅れているものの、紅軍時代の古参兵を抱えており、全員がゲリラ戦に長け、白兵戦を恐れなかった。
「弾薬5万発、軍服1000着を支給する!」黄紹竑はその場で決断した。
この決定は国民党幹部を驚かせた。省主席が「赤匪」を支援するとは?しかし黄紹竑は、日本軍を前にして、中国にはもはや「党派争い」はないことを理解していた。
「劫波を尽くして兄弟あり、相逢えば一笑に付す。」粟裕は感慨深く語った。
1938年4月、遊撃総隊は新四軍第二支隊に改編され、粟裕が副司令となり、矛先を蘇南に向けた。
4月28日、粟裕は先遣支隊を率いて南陵に潜入した。この部隊はまさに「精鋭中の精鋭」だった。メンバーは全員、10年に及ぶ内戦を生き残った古参兵であり、偵察兵でさえ新四軍最高の小銃を装備していた。
しかし粟裕の眉間には常に皺が寄っていた。日本軍が支配する蕪湖は目と鼻の先にあり、一歩間違えれば露見する可能性があった。
ある夜、南陵に宿営していた粟裕は突然目を覚ました。「直ちに移動する!」
部下は不審に思った。「日本軍に動きはありません!」
しかし粟裕は譲らなかった。「蘇南の敗残兵は逃げることしか考えていない。誰が敵を迎え撃つのか?我々は生きた標的だ!」
午前3時、部隊は暗闇の中、山村へと撤退した。翌日の夜明け、日本軍機が轟音を立てて飛来し、元の宿営地を焦土と化した。
東北軍の敗残兵はこの話を聞き、舌を巻いた。「新四軍の指揮官は、神だ!まるで神算鬼謀だ!」
これは運ではない、血の教訓だ。4年前、紅軍北上抗日先遣隊は指揮官の優柔不断により、全滅した。
粟裕は辛うじて生き残り、それ以来「ゼンマイを巻き上げた目覚まし時計」となった。10回間違える覚悟で、一度も運に命を預けることはなかった。
蘇南に入ると、本当の悪夢が始まった。ここは河川網が密集し、頼れる地形がなく、古参兵が得意とする山岳ゲリラ戦は役に立たなかった。
さらに悪いことに、言葉が通じない。兵士が郷紳に「新四軍」を紹介すると、
「森西滚」
と聞き間違えられた。民衆は彼らのぼろぼろの服と粗末な銃を見て、すぐに門を閉ざした。「中央軍でさえ勝てないのに、お前らは死にに来たのか?」
粟裕を最も苦しめたのは、民衆の絶望だった。南京大虐殺の影が江南を覆い、日本軍は占領するたびに村を焼き払い、町を滅ぼした。
民衆は問い詰めた。「お前らは勝てると言うが、なぜ国軍は徐州から逃げたのか?」中には降伏を勧める郷紳もいた。「無駄死にするな、早めに成仏しろ!」
粟裕の答えはただ一言、「戦う!」彼は強気な言葉を放った。「全ては勝利で解決する!」しかし初戦は必ず勝利しなければならない、しかも華々しい勝利で。
1938年6月、チャンスが訪れた。日本軍の車列が頻繁に鎮江と句容を結ぶ道路を行き来していた。粟裕は部下を率いて韋崗に待ち伏せし、雨の日を狙って攻撃を開始した。
戦闘はわずか20分で終了した。日本軍の自動車4台を破壊、敵兵13人を殺害、大量の物資を鹵獲し、
瞬く間にそのニュースは広まり、蘇南を震撼させた。
民衆は道端に集まり、日本兵の死体を囲んだ。「鬼にも死ぬことがあるんだ!」国民党第三戦区でさえ、褒章を送ってきた。「粟裕部隊は一戦にして名を上げ、我が国の威厳を示した!」
韋崗の待ち伏せ攻撃の勝利は、
日本軍の「不敗神話」を打ち砕いた。粟裕は行動で全ての疑問に答えた。
優れた武器がない?ならば戦術でカバーする!民衆の信頼がない?ならば戦績で手に入れる!
この「乞食軍団」の逆襲は、江南の抗戦の烽火を燃え上がらせただけでなく、団結と気概こそが、
中国で最も鋭利な武器であることを世界に示した。
そして歴史は決して忘れないだろう。
1938年の夏、若い指揮官、粟裕が、400丁の粗末な銃で、新四軍抗日第一声を放ったことを。
さて、物語はここまで。江南の戦場で「神算鬼謀」の粟裕が率いる乞食軍団が成功を収めたこの行動について、何か言いたいことはありますか?コメント欄でインタラクティブに共有してください!