【衝撃】項羽vs呂布!最強はどっちだ!?歴史マニアも唸る徹底比較!

項羽と呂布。中国史に名を刻む二人の豪傑、一体どちらが最強なのか!?まるで関羽vs秦瓊のような夢の対決を、史実に基づいて徹底比較!エンタメとして気軽に楽しんでください!

※この記事では、演義ではなく史書に記載された内容のみを扱います。

1.個人としての武勇

まずは項羽から。

清代の李晚芳は「項羽の神勇は、千古に比類なきものなり」と評しました。項羽は身長八尺余り、鼎を持ち上げるほどの怪力、そして並外れた才気の持ち主でした。

項羽の個人としての武勇は、まさに驚愕の一言。

垓下の戦いで敗北後、項羽は包囲を突破し逃亡。漢軍は追撃の手を緩めず、最終的に項羽の手元にはわずか28騎しか残っていませんでした。対する漢軍は数千騎。

しかし、項羽は雄叫びを上げながら突撃し、漢の将を一人斬り伏せました。漢将の楊喜が項羽を追撃すると、項羽は再び大喝一声!楊喜の人馬は恐れおののき、数里も後退したと言います。項羽はさらに突進し、もう一人の漢将を斬り、同時に百人近くを斬り倒しました。そして騎兵と合流、わずか2騎の損失で済んだのです。

項羽は烏江まで逃れましたが、漢軍は再び追ってきました。項羽は馬から降りて徒歩で戦い、息つく間もなく数百人の漢兵を斬り倒しましたが、自身も十数か所に傷を負いました。

窮地に追い込まれながらも、この勇猛さ!信じられないほどの強さです。

次に呂布。

呂布は「飛将」と称され、五原郡九原(現在の内モンゴル自治区包頭市西北部)の出身。辺境で生まれ育ち、並外れた腕力と騎射の技術を持っていました。

董卓の旧部下である李傕と郭汜らが旧勢力を集結させ、長安を包囲した際、呂布は自ら兵を率いて出撃。郭汜に対し「兵馬を退かせ、一騎打ちで勝負を決めよう」と申し出ました。そして二人は一騎打ちを行い、呂布は矛で郭汜を突き刺しました。郭汜は左右の兵に救出され、双方は兵を引きました。

これは史書に記録された数少ない武将同士の一騎打ちの記録です。呂布は一騎打ちを挑み、そして勝利したのです。これは彼の実力の証と言えるでしょう。

虎牢関の戦いで劉備、関羽、張飛の三兄弟と戦ったという逸話は、あくまで演義であり史実ではありません。

その後、呂布は袁紹を頼りました。

袁紹と呂布は常山で黒山軍の張燕と会戦。黒山軍は1万以上の精兵と数千の騎兵を有していました。呂布は愛馬の赤兎馬に乗り、配下の猛将である成廉や魏越ら数十騎を引き連れ、しばしば張燕の軍陣に突撃しました。時には一日三、四度も突撃し、毎回多くの黒山軍の首を討ち取って帰還したと言います。十数日に渡る激戦の末、ついに張燕の軍を打ち破りました。

その後、呂布は袁紹と対立し、逃亡。袁紹は追手を差し向けましたが、追っ手たちは呂布を恐れて近づけなかったと言います。これもまた、呂布の勇猛さを物語るエピソードです。

二人の弓術について比較してみましょう。

呂布の弓術といえば、誰もが知る「轅門射戟」でしょう。呂布は陣門の中に戟を立てさせ、「私が戟の小さな枝を射抜けば、諸君は直ちに攻撃を止め、ここから立ち去るように。もし外れたら、劉備と死闘を繰り広げてもらおう」と言いました。そして弓を引き絞り、戟の小さな枝を見事に射抜いたのです。轅門射戟の距離は約160メートルから195メートルと言われています。

鴻溝の和睦の際、項羽は劉邦と交渉しました。河南省滎陽市の黄河南岸にある広武山の鴻溝は、溝口の幅が約800メートル、深さが200メートルにも達する古代の軍事要衝でした。二人はそれぞれの山頂で対話しましたが、その距離は約200歩、現在の約150メートルに相当します。劉邦が項羽の十大罪状を糾弾すると、項羽は激昂し、劉邦に向けて矢を放ちました。矢は劉邦の胸に命中したと言います。

劉邦は生きた人間で標的は大きく、戟の小さな枝は標的が小さいと言えます。弓術においては、呂布が項羽を上回ると言えるでしょう。

2.戦略・戦術

戦略・戦術においては、呂布は項羽に遠く及びません。しかし、呂布も戦略・戦術面で全く評価できないわけではありません。

項羽はかつて二度、圧倒的な勝利を収めています。

一度目は巨鹿の戦いです。項羽は五万の楚軍を率いて釜を割り船を沈め、四十万の秦軍を打ち破り、二十万を坑殺しました。これは歴史上稀に見る少数の兵力で多数の敵を打ち破った戦いです。

二度目は彭城の戦いです。項羽はわずか半日で三万の騎兵を率いて劉邦率いる五十六万の漢軍を撃破し、劉邦の主力部隊を殲滅しました。これはまさに少数精鋭による勝利の極みと言えるでしょう。

これに対し、呂布は大きく見劣りします。しかし、呂布も決して弱者ではなく、少数で多数の敵を打ち破った戦いも経験しています。

袁術は部下の紀霊に歩兵と騎兵合わせて三万余りの兵を率いさせ、劉備を討伐させました。劉備は呂布に救援を求めました。呂布は歩兵千人、騎兵二百を率いて、小沛へ急行しました。紀霊らは呂布が救援に駆け付けたと聞き、兵を収め、軽挙妄動を控えることにしました。

ここから呂布の威名が千軍万馬に勝るとも劣らないことがわかります。

その後、袁術は部下の張勲、橋蕤らに韓暹、楊奉の兵を合流させ、数万の歩兵と騎兵を率いさせ、七つのルートから呂布を攻撃させました。当時の呂布の兵力はわずか三千、馬は四百匹でした。呂布は韓暹、楊奉に手紙を送り、二人を寝返らせました。二人は呂布と共に下邳で張勲らを大いに打ち破り、十将の首を討ち取り、橋蕤を生け捕りにしました。残りの袁軍は潰走し、多くの者が殺傷され、水中に落ちて溺死し、ほぼ全滅しました。

しかし、項羽の戦績と比較すると、呂布の戦績は大きく見劣りします。

結論として、総合的に見ると項羽は呂布を上回ると言えるでしょう。しかし、呂布もまた、紛れもない猛将であることは事実です。