14世紀の世界は激動の時代。ヨーロッパは十字軍の影から抜け出しルネサンスを迎える一方で黒死病が蔓延、中国では明朝が統治を開始、モンゴル国家は衰退し、アラブ文明は発展を続けていました。
多くの人々はアフリカに目を向けることはありませんでした。数千年の文明史から見ると、ヨーロッパやアジア大陸に比べて目立つ存在ではなかったからです。しかし、アフリカには独自の特徴がありました。例えば、北アフリカのエジプトは、四大文明の一つであり、歴史的に輝かしい文明を築いてきました。
今回ご紹介するのは西アフリカの国、マリ帝国です。当時世界最大の国の一つとして繁栄を極めました。13世紀中期に興り、17世紀に滅亡したイスラム教国です。
マリ帝国は、熱帯雨林、サハラ砂漠、大西洋沿岸、ハウサ人の居住地域を国境とする広大な領土を持っていました。最初の統治者はスンジャタで、首都はニアニに定められました。
ニアニは単なる首都ではありませんでした。文化の中心地ティンブクトは、砂漠の両端を行き交うイスラム教徒の商隊の出発点であり終着点でした。交通の要所であったため、多くの商人が集まりました。
イスラム文化の影響を受け、スンジャタはイスラム教を国教と定めました。しかし、マリ帝国で最も有名な王はスンジャタではなく、その孫であるマンサ・ムーサでした。
マンサ・ムーサの名声はマリ帝国にとどまらず、北アフリカを越え、ヨーロッパやアラブ世界にまで広がりました。彼が有名になった理由は、彼の治世がマリ帝国の最盛期であったことに加え、彼自身が世界で最も「贅沢」な人物であったからです。
マンサ・ムーサが「贅沢」の称号を得たのは、1324年のメッカへの巡礼旅行がきっかけでした。彼は敬虔なイスラム教徒であったため、大勢の巡礼団を率いてマリ帝国を出発し、カイロを経由してメッカを目指しました。その規模は空前絶後でした。
マンサ・ムーサの儀仗兵は500人に及び、一人あたり6ポンドの金塊を携行していました。その後ろには100頭のラクダが続き、30000ポンドもの黄金を運んでいました。さらにその後ろには、1000頭のラクダと6万人の補給担当者が続きました。
この巡礼団の購買力は非常に高く、道中、マンサ・ムーサらは大量に買い物をし、惜しみなく黄金をばら撒きました。これにより、市場に出回る金の量が増加し、金の価格が下落しました。
マンサ・ムーサは、黄金の価格を20%も下落させ、その影響は12年間も続きました。これが世界的な経済危機を引き起こしたのです。
なぜマンサ・ムーサはそれほど裕福だったのでしょうか? 当時、マリは世界最大の金の産出国であり、世界の金の総量の半分を産出していました。そのため、マンサ・ムーサの富は想像を絶するものでした。
マンサ・ムーサは浪費家で贅沢な王のように思えるかもしれませんが、実際は非常に賢明で先見の明のあるイスラム教徒であり、敬虔な人物でした。
ムーサは教育を重視し、知識のある学者を尊重しました。ティンブクトを知識と芸術の中心地として設計し、大学を設立しました。イスラム教徒であれば誰でも無料で大学で学ぶことができ、白人も魅了されました。
ムーサはマリの利点を活かして他国との貿易を促進し、マリの貿易を大きく発展させました。また、世界との接触を広げ、国内の食糧や綿織物は完全に自給自足でき、輸出も可能でした。地中海への交易路は6つもあり、国は莫大な通過税収入を得ていました。
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貿易経済と教育に加え、マリ帝国の軍事力も非常に強力でした。軍隊の規模は10万人に達し、騎兵はその1割を占めていました。ティンブクトには著名な建築家が集まりモスクを建設し、ムーサは毎週金曜日に集団礼拝を行う制度を確立しました。
マンサ・ムーサの賢明な統治により、マリ帝国は繁栄の時代を迎えました。彼の死後、帝国は混乱に陥り、かつての栄光は失われましたが、歴史上最も裕福な王として、人々の記憶に永遠に残ることでしょう。
【参考文献:《マリ帝国》、《マンサ・ムーサ》】