【衝撃の歴史IF】もし蜀が魏を倒して天下統一できたとしたら…!?三国志の「あり得た未来」を徹底考察!

蜀漢が天下を統一できた可能性は理論上存在しますが、条件は非常に厳しかったと言えるでしょう。関羽が荊州を失った時点でその可能性は大きく低下しましたが、歴史上、弱小な政権が強敵を打ち破って天下を統一した例も存在します。蜀漢が魏を倒すためには、優秀な統帥と敵国の内乱が必要不可欠でした。諸葛亮は優れた才能を持っていましたが、曹魏には明君が在位しており、国力には大きな差がありました。もし諸葛亮が長生きしていれば、曹魏を打ち破るチャンスもあったかもしれません。

蜀漢が天下を統一する可能性はあったのか?

理論上はありましたが、条件が非常に厳しかったのです。蜀漢の当時の状況は、『三国演義』で司馬徽が諸葛亮の出仕時に語った「主を得たとはいえ、時を得ず」という言葉にまさに当てはまります。

劉備グループは赤壁の戦い後、順調に進撃し、まず荊州の半分を奪い、その後、西川を奪取、最後に漢中で曹操を打ち破りました。この時の劉備グループはまさに日の出の勢いで、「天下に異変」という追い風が吹けば、二手に分かれて出撃し、中原を北伐できたはずでした。

しかし、劉備が漢中王を名乗った直後、関羽が荊州を失い、続いて夷陵で大敗を喫し、隆中対は完全に終わりを迎えました。さらに、南中が反乱を起こし、蜀漢は内憂外患に見舞われ、四面楚歌の状態に陥りました。

そのため、関羽が麦城から敗走した時点で、蜀漢は天下を争う可能性を完全に失ったと考える人も多くいます。強大な曹魏の前に、ただ延命するだけで、滅亡は時間の問題だと考えられていました。そして、歴史の進み具合もまさにその通りでした。

しかし、歴史上、蜀漢よりも弱小な政権が、最終的に強敵を打ち破り、天下を統一した例も少なくありません。例えば、短期間で遼を滅ぼし宋を飲み込んだ金国や、13個の鎧兜で身を起こした清朝がその良い例です。また、蜀漢はただ延命していたわけではなく、劉備の死後40年間、自分よりも数倍強い曹魏に何度も積極的に攻め込んでいました。そのため、運営次第では、蜀漢が曹魏を打ち破ることは十分に可能だったのです。

しかし、弱者が強者に勝つためには、2つの前提条件が必要です。1つは、自軍に非常に優秀な統帥がいること、もう1つは、敵は強大だが、内部に重大な危機、例えば内乱や暗愚な君主の支配といった問題が発生していることです。

金国が極めて短期間で強大な遼を滅ぼし、大宋を破ることができたのは、金国自体が強かったからではなく、非常に優秀な統帥である完顔阿骨打がいたからです。一方、その対戦相手である遼と北宋は、兵力、人口、富で金国を数倍上回っていましたが、天祚帝耶律延禧と宋徽宗趙佶はどちらも有名な暗君でした。後の清朝がスムーズに入関し、全国を統一できたのも、明朝内部で党争が絶えず、李自成らの反乱も加わり、すでに国本が揺らいでいたからです。

諸葛亮自身が出将入相の優秀な統帥であり、進んでは千軍万馬を率いることができ、退いては国を安らかにすることができました。彼の威望は古今東西、彼に匹敵する者はほとんどいません。姜維の北伐が困難を極めたのは、彼の威望とリーダーシップが不足していたため、国内をまとめられず、対外的には千里を制することができなかったからです。

しかし残念なことに、諸葛亮が権力を握っていた期間、曹魏の二代の皇帝はどちらも明君であり、曹丕も曹叡も耶律延禧や趙佶よりも優れていました。そのため、蜀漢は敵から突破口を見つけることができず、少しずつ苦労して攻略していくしかありませんでした。しかし、国力の差は歴然としており、諸葛亮に天地を覆すほどの才能があっても、自分よりも数倍の規模を持つ強敵を相手に、どうすることもできませんでした。

想像してみてください。もし金国の相手も曹丕のような明君だったら、蜀漢よりも酷い状況になっていたでしょう。

さらに、天は彼に長寿を与えませんでした。諸葛亮は54歳で亡くなりました。もし司馬懿のように長生きし、曹叡の死後まで生き延びていれば、曹魏は主が若く国が疑心暗鬼に陥り、国内では司馬家が虎視眈々と狙い、国外では蜀漢と東呉が機会を窺っている状況になり、その時、諸葛亮が再び北伐を呼びかければ、本当に曹魏を掃滅し、両京を回復できたかもしれません。