【衝撃の真相】姜維の北伐は漢室復興にあらず!隠された驚愕の目的とは?歴史ミステリーを徹底解剖!

姜維の北伐…それは本当に「漢室復興」のためだったのか?実は、知られざる裏の目的があった!?蜀漢を揺るがした11回の北伐の真相に迫る、歴史ミステリー!

魏の参軍だった姜維が、なぜ蜀漢の大将軍にまで上り詰めたのか?費禕暗殺後、彼が蜀漢軍の実力者となった背景には何が?北伐の真の目的とは一体…?

歴史の闇に隠された真実を暴き、姜維の北伐の裏に秘められたドラマチックな物語を紐解きます。驚きの展開に、あなたもきっと引き込まれるはず!

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姜維の出自と蜀への投降

蜀漢の名将として知られる姜維。しかし、彼は元々魏の天水郡の参軍だった…。一体、何が彼を蜀へと向かわせたのか?そこには、驚くべきドラマがあった!

建安23年(218年)、姜維は魏の天水郡冀県(現在の甘粛省甘谷県)で、代々官吏を務める家系に生まれた。父の姜冏は郡の功曹を務め、家柄は申し分なし。姜維は幼い頃から聡明で、7歳で文章を書き、9歳で『詩経』や『論語』に通じていたという。「この子は将来、必ずや家名を上げることだろう!」と、郷里の人々は噂した。

その言葉通り、姜維は成長すると文武両道に秀でた。兵法に精通しているだけでなく、騎射にも長けていた。「文筆で天下を安んじ、武で馬上に天下を定める」まさにその言葉を体現した人物だった。その才能を見込まれ、彼はすぐに天水郡の参軍に任命され、軍事事務を担当することになった。

しかし、姜維の人生の転換期は、228年の諸葛亮による第一次北伐の際に訪れる。蜀軍が天水を攻めてきた際、姜維は兵を率いて抵抗しようとした。しかし、天水太守の馬遵は姜維を疑い、内通しているのではないかと疑念を抱いたのだ。

ある日、馬遵は役人を集めて軍議を開いた。姜維は自信満々に言った。「蜀軍は勢いが盛んです。ここは一旦退き、彼らの食糧が尽きるのを待つのが得策でしょう。」しかし、馬遵はこれを聞いて激怒し、「何を言うか!敵に味方するつもりか!」と姜維を激しく叱責した。姜維は弁解の余地もなく、すごすごと退散するしかなかった。

それ以来、馬遵は姜維に難癖をつけ、密かに監視まで始めた。姜維は自分が危険な立場に置かれていることを悟り、天水に留まれば命の危険があると判断。密かに腹心を蜀の陣営に送り、投降の意思を伝えた。

諸葛亮はこれを知り、大いに喜んだ。かねてから姜維の名声は耳にしており、この逸材を得られるとあって、喜ばないはずがない。そこで、諸葛亮は姜維を「捕虜」として迎え入れる策略を練り、馬遵の疑念を払拭することにした。

こうして、ある月明かりのない夜、姜維は数名の側近を連れて脱出を試みた。蜀軍は追撃を装い、姜維を「捕虜」にした。馬遵はこれを見て、姜維が忠義を尽くし、国のために命を捧げたと勘違いし、深く感動したという。

姜維が蜀の陣営に到着すると、諸葛亮自らが出迎えた。二人は意気投合し、まるで旧知の仲のように話が弾んだ。諸葛亮は尋ねた。「あなたは兵法に長けていると聞きますが、何か良い策はありますか?」姜維は落ち着いて答えた。「丞相が私を案内役にしてくだされば、必ずや隴右を攻略できるでしょう。」諸葛亮はこれを聞いて大喜びし、すぐに姜維を参軍に任命し、自ら兵法を伝授した。

こうして姜維は諸葛亮の弟子となり、その真髄を深く学んだ。彼は蜀漢軍の中で急速に頭角を現し、数々の戦で功績を挙げた。諸葛亮はしばしば姜維を「維はわが子房なり!」と褒め称えた。これは、劉邦を補佐した張良のように優秀だという意味である。

しかし、姜維の才能は一部の人々の嫉妬も買った。「降将」であるという理由で、彼を重用すべきではないという声も上がった。しかし、諸葛亮は全く意に介さず、むしろ姜維を重用した。「人の道は、人を知り、適材適所に配置することにある。姜維は降将だが、忠誠心は高く、才能も傑出しており、まさに国の柱となる人物だ!」と常々語っていた。

こうして姜維は蜀漢で確固たる地位を築き、その伝説的な軍事キャリアをスタートさせた。魏の小役人から蜀漢の名将へ…姜維の経験はまさに伝説と言えるだろう。しかし、これは彼の人生の始まりに過ぎず、さらなる機会と挑戦が彼を待ち受けていた。次に、諸葛亮の死後、姜維がどのようにして急速に台頭し、蜀漢軍の中核を担う人物となったのかを探っていこう。

諸葛亮の死後、姜維はいかにして蜀漢軍の実力者となったのか

諸葛亮の死後、蜀漢朝廷は一時的な混乱に陥った。しかし、この権力闘争の中で、姜維は自身の才能と策略によって急速に台頭し、蜀漢軍で最も実力のある人物となった。この過程は曲折に満ちており、困難なものであった。姜維がどのようにしてこの驚くべき転身を遂げたのか、共に探ってみよう。

建興12年(234年)、諸葛亮は五丈原で病死した。この知らせは青天の霹靂のように蜀漢朝廷全体を震撼させた。諸葛亮は生前、蒋琬を後継の丞相として劉禅に推薦したが、軍事面を掌握できる人物がいなかった。まさにその時、姜維が立ち上がったのだ。

当時、姜維は前線で軍を指揮していた。彼は直ちに行動を起こし、軍の士気を安定させ、迅速に撤退の準備を整えた。撤退の過程で、姜維は並外れた軍事能力を発揮した。「螺旋撤退」という戦術を採用したのだ。これは、部隊が戦いながら後退し、互いに援護し合い、螺旋状の撤退陣形を形成するというもの。この方法によって、軍の安全を確保するだけでなく、魏軍に大きなプレッシャーを与え、安易な追撃を躊躇させた。

成都に戻った姜維は、直ちに劉禅に前線の状況を報告し、朝廷を安定させるための一連の提言を行った。彼の決断力と知恵は劉禅に深い印象を与えた。劉禅は直ちに、姜維に蒋琬を補佐して軍事事務を処理させることを決定した。

しかし、姜維の台頭は決して順風満帆ではなかった。朝廷の多くの大臣は、この「降将」に依然として疑念を抱いていた。特に楊儀は、かつて諸葛亮の側近だった人物で、姜維の急速な昇進に不満を抱いていた。

ある時、朝廷の会議で楊儀は公然と姜維の忠誠心を疑い、「姜維はもともと魏の人間です。今や大きな権力を握り、国家にとって不利になるのではないでしょうか。」と言った。姜維はこれを聞いて慌てることなく、「楊大人、それは違います。『主を選んで仕え、生を受けたことを辱めない』という言葉があります。私、姜維はすでに蜀漢に投降しました。国家の利益を第一に考えるべきです。もし二心があるならば、天地が許さないでしょう!」と答えた。

姜維のこの言葉は、楊儀の疑念を打ち砕いただけでなく、その場にいた人々の賛同を得た。劉禅は姜維の忠誠心を深く信じ、ますます彼を頼るようになった。

その後の数年間で、姜維は一連の軍事行動を通じて、自身の地位をさらに強固なものにした。彼は何度も軍を率いて出撃し、大きな勝利を収めることはできなかったが、毎回魏軍に少なくない損害を与え、蜀漢の将兵を鍛え上げた。

建興16年(238年)、姜維の地位にとって非常に重要な出来事が起こった。当時、魏は大将軍の司馬懿を派遣し、漢中を攻撃させた。この危機的状況に直面し、蒋琬と費禕は共に籠城を主張した。しかし、姜維は大胆な計画を提案した。

姜維は劉禅に言った。「陛下、魏軍は今回、勢いが盛んです。もし私たちがただ籠城しているだけでは、いずれ攻略されてしまうでしょう。私に奇襲部隊を率いさせ、魏軍の後方に回り込み、彼らの糧道を断ちましょう。そうすれば、司馬懿は必ず撤退せざるを得なくなるでしょう。」

劉禅はこれを聞いて躊躇し、蒋琬と費禕もリスクが大きすぎると反対した。しかし、姜維は自分の意見を曲げず、「臣は首を賭けてこの計画を実行してみせます!」と言った。

最終的に、劉禅は姜維の自信に心を打たれ、彼の計画を承認した。姜維は5千の精鋭部隊を率いて、密かに魏軍の後方に回り込み、一挙に彼らの糧道を破壊した。後方の糧道を破壊されたことを知った司馬懿は、慌てて撤退せざるを得なくなった。

この戦役は漢中の危機を救っただけでなく、姜維の名声を新たな高みへと押し上げた。それ以来、軍における彼の地位は揺るぎないものとなった。かつて彼に警戒心を抱いていた蒋琬と費禕でさえ、姜維の才能を認めざるを得なくなった。

建興18年(240年)、蒋琬が亡くなり、費禕が丞相に就任した。しかし、軍事面では、費禕はほとんど姜維の助言に頼っていた。つまり、この時の姜維は、蜀漢軍の事実上の最高司令官となっていたのだ。

しかし、権力の頂点には、より大きな責任とプレッシャーが伴う。姜維は、蜀漢の国力が魏に比べて依然として大きな差があることを痛感していた。このような状況でどのように国を守り、さらには先帝劉備の遺志を実現するのか?それが姜維が昼夜を問わず考え続けた問題だった。このような背景から、姜維は有名な「北伐」計画を練り始めた。この計画は国家の運命に関わるだけでなく、姜維自身の人生の軌跡を大きく変えることになる。

姜維北伐の真の目的

姜維の北伐は、歴史的に常に議論の的となってきた。表面的には、漢室を復興し、先帝劉備の遺志を実現するためだったように見える。しかし、詳しく調べてみると、姜維の北伐の真の目的は、それよりもはるかに複雑であることがわかる。

延熙元年(238年)、姜維は最初の北伐を開始した。この北伐で、姜維は軍を率いて隴右を攻撃し、一時的に襄武を占領した。しかし、兵力不足のため、最終的には撤退せざるを得なかった。この行動は、実質的な進展はなかったものの、姜維に「北伐将軍」という名声をもたらした。

それ以来、姜維はほぼ毎年北伐を行い、前後合わせて11回に及んだ。これらの北伐行動は、蜀漢の人的資源と物的資源を大量に消費したにもかかわらず、期待された効果を得ることはできなかった。では、姜維はなぜこれほどまでに北伐に執着したのだろうか?

まず、姜維の北伐は単なる軍事行動ではなく、政治的な手段であったことを理解する必要がある。蜀漢朝廷では、常に主戦派と主和派の争いが存在していた。姜維は、北伐を繰り返すことで、主戦派のリーダーとしての地位を確立し、同時に主和派の声を抑え込んだのだ。

次に、北伐は姜維が自身の権力を維持するための重要な手段でもあった。降将である姜維は、蜀漢朝廷において常に一定の疑念に直面していた。北伐を繰り返すことで、軍隊の忠誠心を維持することができ、同時に異分子を排除し、軍における自身の地位を確立することができたのだ。

このことを示す、あまり知られていない話がある。延熙12年(249年)、姜維は軍を率いて北伐し、天水を攻撃した。この行動で、姜維は自分にとって不利な将軍をわざと危険な場所に派遣し、自分は本営に留まった。その結果、これらの将軍は案の定敗北し捕虜となり、姜維はこの機会を利用して朝廷に上奏し、これらの人々を平民に降格させた。この手段は、異分子を排除しただけでなく、他の将軍に姜維をより畏怖させることにもなった。

さらに、北伐には、国内の矛盾を解消するという、より深い目的もあった。蜀漢は建国当初、諸葛亮が一連の改革を行い、国力を大きく高めた。しかし、時が経つにつれて、これらの政策の弊害が徐々に表面化してきた。特に農業生産においては、長年の戦乱により農民の負担が増加し、民衆の不満が高まっていたのだ。

姜維は、この状況を放置すれば、いずれ大きな問題が起こると認識していた。そこで彼は、北伐を繰り返すことで、人々の注意を国内問題から対外戦争へと転換させるという妙案を思いついた。北伐の成否に関わらず、毎回、朝廷内外で議論の焦点となり、国内の矛盾を一時的に覆い隠したのだ。

ある時、蜀漢国内で深刻な干ばつが発生し、民衆の不満が噴出した。まさにその時、姜維は再び北伐を提案した。朝廷の大臣たちは、国内のことで手一杯なのに、北伐をする余裕などないとして反対した。しかし、姜維は自分の意見を曲げず、「国内が困難だからこそ、北伐が必要なのだ。魏を打ち破り、彼らの肥沃な土地を奪い取ってこそ、我々の苦境を解決できるのだ。」と言った。

この言葉は、劉禅を説得しただけでなく、民衆に一縷の希望を与えた。その結果、今回の北伐は大きな成果を上げることはできなかったものの、民衆の干ばつに対する不満をうまく転換させることに成功した。

しかし、姜維の北伐には、さらに隠された目的があった。それは、自分のために逃げ道を残しておくということだ。降将である姜維は、蜀漢における自身の地位が安定していないことを痛感していた。もし権力を失えば、首を刎ねられるような目に遭うかもしれない。そのため、彼は魏に一定の影響力を残しておく必要があったのだ。

北伐を繰り返すことで、姜維は魏国国境地域に巨大な情報ネットワークを構築した。彼は多くの地元の豪族を手なずけ、魏国の一部の中下級官僚にまで浸透させた。これらの人々は、姜維の北伐に情報を提供しただけでなく、彼の潜在的な逃げ道となったのだ。

このことを裏付ける興味深い事実がある。姜維の数回の北伐において、彼は毎回、自分の故郷である天水をわざと避けていた。表面的には、これは嫌疑を避けるためだった。しかし実際には、姜維は故郷における人間関係を守っていたのだ。彼は、もし蜀漢で失脚した場合、これらの旧友が最後の頼みの綱になるかもしれないと知っていたのだ。

結論として、姜維の北伐は、単に漢室を復興するためではなく、複雑な政治的・軍事的行動であった。それは姜維が自身の権力を維持するための手段であり、国内外の情勢に対応するための戦略でもあった。このような多重の目的の存在が、姜維が成功が難しいとわかっていても、北伐に執着した理由を説明している。

しかし、歴史は無情である。姜維のこれらの計算は、最終的に期待された効果を得ることはなかった。それどころか、頻繁な北伐は蜀漢の衰退を加速させた。個人の才能がいかに高くても、歴史の大勢を変えることは難しいということを痛感させられる。姜維の物語は、まさにこの道理を最もよく表しているのかもしれない。

姜維北伐十一次の過程とその影響

姜維の北伐は、蜀漢後期における最も重要な軍事行動であり、三国時代における最も議論を呼んだ歴史的出来事の一つである。延熙元年(238年)から景耀6年(263年)まで、姜維は前後11回にわたって北伐を行ったが、それぞれに特徴と影響があった。これらの北伐の過程とその影響を一つずつ見ていこう。

最初の北伐は延熙元年(238年)に起こった。姜維は軍を率いて隴右を攻撃し、一時的に襄武を占領した。今回の北伐は規模こそ小さかったが、蜀漢軍における姜維の地位を確立するものとなった。姜維が初戦で勝利したことを知った劉禅は大いに喜び、自ら姜維のために祝宴を開いた。宴会で劉禅は姜維に宝剣を贈り、その功績を称えた。この剣は諸葛亮が生前に使用していたものとされ、姜維はこの栄誉を得たことで、その能力を認められたと言えるだろう。

2回目の北伐は延熙4年(241年)に起こった。今回の北伐の目標は隴西だった。姜維は軍を率いて出動し、破竹の勢いで数々の城を陥落させた。しかし、姜維がさらに奥深くまで侵攻しようとした時、魏の名将郭淮が軍を率いて駆けつけた。双方は隴西で激戦を繰り広げたが、姜維は勇敢に戦ったものの、最終的には郭淮の精鋭部隊に敵わず、撤退を余儀なくされた。今回の敗北で姜維は、北伐を成功させるためには、より十分な準備が必要であることを悟った。

3回目の北伐は延熙7年(244年)に起こった。今回の北伐で姜維は、過去2回の経験と教訓を生かし、より慎重な戦略を採用した。彼はまず、間者を魏に潜入させ、蜀軍が安定を攻撃するという噂を流布させた。魏将郭淮は案の定この計略に引っかかり、軍を率いて安定に駐屯した。姜維はこれに乗じて郿県を攻撃し、一挙に攻略した。今回の北伐は大きな戦果を上げることはできなかったものの、姜維の戦術は朝廷から称賛された。

4回目の北伐は延熙9年(246年)に起こった。今回の北伐は、姜維が最も有名になった行動である。彼は軍を率いて祁山を出発し、長安に迫った。魏将郭淮と夏侯覇は協力して抵抗し、双方は洮西で激戦を繰り広げた。姜維はこの戦いで優れた手腕を発揮し、魏軍の攻撃を撃退しただけでなく、夏侯覇を捕虜にすることにも成功した。今回の勝利は、蜀漢軍の士気を大いに高め、魏朝廷に西線の防衛を重視させることにもなった。

5回目の北伐は延熙11年(248年)に起こった。今回の北伐で、姜維は陽動作戦を採用した。彼はまず、隴西を攻撃するそぶりを見せ、魏軍の主力を西に移動させ、その後、突然方向転換し、関中を攻撃した。この戦略は最初は成功し、姜維は武都に侵入した。しかし、魏将郭淮はすぐに姜維の計略を見抜き、軍を率いて帰還し、武都で姜維と激戦を繰り広げた。双方は数日間激戦を繰り広げたが、最終的に姜維は食糧不足のため、撤退せざるを得なかった。

6回目の北伐は延熙13年(250年)に起こった。今回の北伐で姜維は、これまでの一匹狼的な戦略を改め、蜀漢の名将王平と協力して戦うことにした。二人は兵を二手に分け、同時に魏の西部を攻撃した。この連携作戦は最初は非常に効果的で、蜀軍は一時的に隴西奥地へと侵攻した。しかし、魏将陳泰は、魏を包囲して趙を救うという戦略を採用し、積極的に漢中を攻撃した。姜維は軍を率いて救援に戻らざるを得なくなり、今回の北伐はうやむやに終わった。

7回目の北伐は延熙16年(253年)に起こった。今回の北伐は、姜維にとって最も壮観な行動であった。彼は5万の大軍を率いて、大々的に魏国へと進軍した。魏将郭淮と陳泰は協力して抵抗し、双方は侯和で激戦を繰り広げた。この戦いは数ヶ月間続き、双方は一進一退を繰り返し、戦況は激化した。最終的に、姜維は魏軍の防衛線を突破することはできなかったが、魏国に大きな損害を与えた。

8回目の北伐は延熙18年(255年)に起こった。今回の北伐で姜維は、奇襲作戦を採用した。彼は軍を率いて魏の西部を奇襲し、一挙に狄道を攻略した。魏将王経は軍を率いて救援に駆けつけ、双方は狄道の城下で激戦を繰り広げた。この戦いで姜維は優れた手腕を発揮し、王経の攻撃を撃退しただけでなく、彼を捕虜にすることにも成功した。今回の勝利で姜維は、蜀漢朝廷における地位を頂点にまで高めた。

9回目の北伐は景耀元年(258年)に起こった。今回の北伐で姜維は再び陽動作戦を採用した。彼はまず、隴西を攻撃するそぶりを見せ、魏軍の主力を西に移動させ、その後、突然方向転換し、長安を攻撃した。しかし、魏将鄧艾はすでに姜維の意図を見抜いており、事前に防御を固めていた。双方は長安の城下で激戦を繰り広げたが、最終的に姜維は兵力不足のため、撤退せざるを得なかった。

10回目の北伐は景耀3年(260年)に起こった。今回の北伐で姜維は、これまでの戦略を改め、株を守って兎を待つという方法を採用した。彼は軍を率いて祁山に駐屯し、魏軍が積極的に攻撃してくるのを待った。魏将鍾会は案の定この計略に引っかかり、軍を率いて攻撃してきた。双方は祁山で激戦を繰り広げ、姜維は地の利を生かして鍾会の攻撃を撃退することに成功した。今回の勝利で姜維は、蜀漢軍における威望を再び高めた。

11回目にして最後の北伐は景耀5年(262年)に起こった。今回の北伐で姜維は、最も保守的な戦略を採用した。彼は軍を率いて祁山を出発したが、魏の領土深くまで侵攻することはなく、国境地域で魏軍と対峙した。双方は数ヶ月間対峙したが、最終的にはうやむやに終わった。今回の北伐は実質的な進展はなかったものの、姜維の軍事キャリアの句読点となった。

姜維の11回の北伐は、三国鼎立の構図を変えることはなかったものの、蜀漢と魏の両国に深い影響を与えた。蜀漢にとって、これらの北伐行動は国力を著しく消耗させ、蜀漢の衰退を加速させた。しかし同時に、蜀漢は最後の年月において、一定の進取の気性を維持することができた。魏にとって、姜維の北伐は直接的にその統治を脅かすことはなかったものの、魏は西線に大量の兵力を投入せざるを得なくなり、東呉に対処するための戦略に一定の影響を与えた。

さらに重要なことは、姜維の北伐が後世に豊富な軍事経験と教訓を残したことである。彼の多くの戦術、例えば陽動作戦や魏を包囲して趙を救うといった戦術は、後世の軍事家が研究する模範となった。同時に、彼の頻繁すぎる北伐は後世の人々に、過度の軍事行動は国力の急速な衰退を招く可能性があることを警告した。

姜維北伐が蜀漢に与えた影響とその歴史的評価

姜維の北伐は、蜀漢後期における最も重要な軍事行動として、蜀漢に深い影響を与えたと同時に、後世のhistorianたちによる功罪をめぐる多くの議論を引き起こした。これらの影響と評価は、姜維個人の歴史的地位を反映しているだけでなく、蜀漢滅亡の原因を理解するための重要な手がかりとなる。

まず、姜維の北伐は蜀漢の軍事力に大きな消耗をもたらした。『三国志』によれば、姜維が在位していた期間、蜀漢はほぼ毎年戦い、大量の人的資源と物的資源が北伐事業に投入された。このような継続的な軍事的消耗は、蜀漢の国力を大きく弱めた。このことを示すあまり知られていない事実がある。姜維が最後の北伐を行った後、蜀漢の兵員数は大規模な軍事行動を支えるには不十分となっていた。魏の大将鄧艾が軍を率いて侵攻してきた時、蜀漢朝廷は動員できる兵士がおらず、緊急に民兵を召集して迎え撃つしかなかった。このような軍事力の衰退は、蜀漢の滅亡の伏線となったと言えるだろう。

次に、姜維の北伐は蜀漢の経済にも深刻な悪影響を及ぼした。頻繁な戦争には大量の軍需物資が必要となり、蜀漢は民への課税を増やさざるを得なくなった。史料によれば、姜維の北伐期間中、蜀漢の農民の負担は建国当初よりも重くなっていたという。綿竹で起こったある出来事は、このことをよく示している。一人の老農は軍需物資の穀物を納めることができず、役人に捕らえられた。彼の息子は父親を救うために、奴隷として身を売らざるを得なかった。このような状況は当時の蜀漢では珍しくなく、北伐が民生に深刻な影響を与えていたことを物語っている。

さらに、姜維の北伐は蜀漢内部の政治的不安定にもつながった。北伐の結果が芳しくないことが多かったため、朝廷では反対の声が上がり始めた。特に蒋琬や費禕といった老臣が亡くなった後、朝廷では陳祇を中心とする主和派が形成された。彼らは、北伐を続けることは蜀漢の滅亡を早めるだけだと考えていた。しかし、姜維は軍における自身の影響力を背景に、主戦政策を強行した。このような政見の相違は、蜀漢朝廷の内部対立をますます激化させた。典型的な例として、姜維の北伐が失敗した後、陳祇は朝廷の会議で公然と姜維を批判し、手柄を焦って無謀な行動をとったと非難した。姜維はその場で反論しなかったものの、私的に劉禅に進言し、陳祇らは不穏な動きをしていると訴えた。このような政治闘争は、蜀漢の結束力を大きく弱めた。

しかし、姜維の北伐は完全に否定的な影響ばかりではなかった。それはある程度、蜀漢の進取の気性を維持し、魏に常に西線の脅威を軽視させないようにした。さらに重要なことは、姜維の北伐が後世に豊富な軍事経験を残したことである。例えば、彼が4回目の北伐で使用した「陽動作戦」は、後世の軍事家が研究する模範となった。

姜維北伐の歴史的評価については、古来より賛否両論がある。支持者は、姜維は先帝劉備の遺志を実行しようとしており、彼の北伐は蜀漢が屈服しない精神を体現していると主張する。彼らは、姜維の北伐がなければ、蜀漢はもっと早く滅亡していただろうと指摘する。この見解の代表的な人物は、宋代のhistorian司馬光である。『資治通鑑』の中で、司馬光は姜維の軍事能力を高く評価し、彼を「才略は武侯に似たり」と評している。

反対者は、姜維の北伐は蜀漢の滅亡を加速させたと主張する。彼らは、姜維は蜀漢の国力が大規模な軍事行動を支えるには不十分であることを正しく認識しておらず、彼の北伐は事実上国力を使い果たしていたと指摘する。明代のhistorian王世貞はかつて、「姜維が蜀を滅ぼした罪は、鄧艾よりも甚だしい」と痛烈に批判した。

また、よりマクロな視点から姜維の北伐を評価しようとするhistorianもいる。彼らは、姜維の北伐は三国鼎立の構図を変えることはなかったものの、客観的には魏が統一するプロセスを遅らせたと考えている。姜維の北伐がなければ、魏はもっと早く兵力を東呉に向け、三国の統一を加速させた可能性がある。この観点から見ると、姜維の北伐はある程度、三国時代を長引かせ、中国の歴史の発展に深い影響を与えたと言える。

結論として、姜維の北伐は複雑な歴史的出来事であり、その影響と評価も多岐にわたる。それは蜀漢の衰退を加速させた一方で、魏の統一プロセスを遅らせた。蜀漢の国力を消耗させた一方で、蜀漢の進取の気性を維持した。内部対立を激化させた一方で、後世に貴重な軍事経験を残した。このような複雑性こそが、姜維の北伐が歴史上常に議論の的となってきた理由であろう。