張作霖はなぜ、共産党の創始者である陳独秀を殺さなかったのでしょうか?
同じく共産党の創始者である陳独秀と李大釗は、かつて北京大学で教鞭をとっていました。しかし、李大釗は張作霖によって殺害されましたが、陳独秀は投獄されただけでした。理屈から言えば、陳独秀の影響力は李大釗を上回り、性格も頑固で、率直すぎる物言いは、策略とは無縁で人を怒らせやすく、災いを招きやすいはずです。それでも彼は李大釗のように張作霖に殺されませんでした。一体なぜなのでしょうか?今日は、張作霖と陳独秀の間にあった、あまり知られていない関係についてお話しします。
皆さんはご存知ないかもしれませんが、実は張作霖と陳独秀は義兄弟だったのです。これを聞いて、ますます混乱するかもしれませんね。一体どういうことなのでしょうか?簡単にご説明します。
陳独秀の伯父である陳衍庶は、晩清の官僚でした。彼は光緒元年に科挙に合格し、官吏となってから東北地方に赴任しました。彼は知府という官位にまで上り詰めましたが、子供がいませんでした。そのため、兄弟の二男である陳独秀を養子に迎えました。陳衍庶自身も才能のある人物で、書画や詩文にも長けていました。東北地方に赴任した際には、身近に置いていた養子の陳独秀を自ら教育し、遠く海外に留学させました。
当時、世はまさに混乱の時代でした。知府の地位にあった彼は、匪賊の頭領であった張作霖を招安しました。張作霖の部隊を吸収し、匪賊から官兵へと変えたのです。こうして張作霖は清朝の官吏となりました。陳衍庶は張作霖の度胸と知恵を高く評価し、知府の安全警護を任せました。それはまるでボディーガードのようなものでした。張作霖もまた、陳知府の知識を敬い、その人柄を尊敬し、義父として仰ぎました。
そのため、張作霖と陳独秀は義兄弟となったのです。
皆さん、張作霖が陳独秀を殺すことなどできるでしょうか?