唐の最強武将として名を馳せた薛仁貴。九姓鉄勒、高句麗、突厥を次々と打ち破り、「三箭定天山」「神勇收遼東」などの伝説を残しました。しかし、そんな彼が唐建国以来、最大の敗北を喫した戦いがあります。それが「大非川の戦い」です。
咸亨元年、吐蕃討伐と吐谷渾の復興を目指し、薛仁貴は羅娑道行軍大総管に任命され、阿史那道真、郭待封を副総管として5万の兵を率いて吐谷渾王を青海へ送り届けます。しかし、結果は唐軍の大敗。これを機に、吐蕃は唐と対等に渡り合う西部の大国となり、その後何度も唐に侵攻、唐の悩みの種となるのです。なぜ、最強の唐軍が、名将の指揮下で敗北を喫してしまったのでしょうか?
一、将軍たちの不協和音!郭待封、軍令無視で暴走
開戦当初、唐軍は薛仁貴の指揮のもと、主導権を握っていました。しかし、名将郭孝恪の息子である郭待封は、薛仁貴の部下として扱われることに不満を持ち、度々彼の命令に背くようになります。唐軍が大非川に到着し、烏海へ向かおうとした時、薛仁貴は郭待封に言いました。「烏海は地形が険しく、毒気が多い。しかし、我々が迅速に行軍すれば成功できる!ここは広くて平坦なので、全ての軍需物資を隠しておき、お前は1万の兵を率いて守れ。残りの兵は迅速に進軍し、敵の不意を突けば打ち破ることができる!」そして、彼は軍を率いて先行し、河口で吐蕃軍と遭遇。吐蕃軍を撃破し、1万頭以上の牛や羊を奪いました。
しかし、傲慢な郭待封は薛仁貴の命令を聞かず、兵糧や輜重をゆっくりと運びました。彼らが烏海に到着した時、吐蕃の20万の援軍が駆けつけ、彼らを攻撃。唐軍は大敗を喫し、兵糧や輜重は敵の手に落ちました。兵糧がない状況下で、薛仁貴は退却を余儀なくされ、大非川に駐屯。しかし、吐蕃の首領は勢いに乗り、40万以上の大軍を率いて唐軍に攻撃を仕掛けました。兵力差があまりにも大きく、薛仁貴は為す術なく大敗。吐蕃の将軍である論欽陵と和睦を結ぶしかありませんでした。唐軍の敗北により、薛仁貴は免職され、平民に降格。郭待封の独断専行が、唐軍敗北の重要な原因となったのです。もし彼が薛仁貴の言葉を聞いていれば、吐蕃軍が攻撃してきた際に、薛仁貴がタイムリーに救援し、兵糧や輜重のない絶望的な状況に陥ることはなかったでしょう。
二、地理的環境が唐軍に不利
大非川は現在の青海省共和県の南西にある切吉曠原に位置し、高原地帯に属しています。唐軍は高地に入り、多くの兵士が高山病を発症しました。特に標高4000メートル以上の烏海に到着した後、多くの将兵が高山病に苦しみました。さらに、薛仁貴が兵士に迅速な進軍を求めたため、唐軍は高原環境に適応する時間がなく、体力消耗も激しく、唐軍の戦闘力を削ぐことになりました。
三、圧倒的な兵力差
前述の通り、唐軍はわずか5万人でしたが、吐蕃軍は40万にも達し、唐軍の8倍でした。しかも、吐蕃軍の将軍は、吐蕃史上傑出した政治家、軍事家である論欽陵でした。彼は唐軍精鋭との正面対決を避け、優勢な兵力を集中させ、唐軍の兵糧と軍需物資を遮断し、唐軍を補給不足に陥れました。さらに、吐谷渾が吐蕃に傾倒し、吐蕃を支援するために出兵したため、この40万の吐蕃軍の中には、多くの吐谷渾人も含まれており、兵士の大部分が吐谷渾人だった可能性もあります。
様々な要因が重なり、唐軍は大非川で惨敗を喫したのです。