1647年1月2日、四川省西充県の鳳凰山。朝霧が立ち込め、山野は静寂に包まれていた。突如、清軍の一隊がひそかに接近。彼らの標的は大西政権の創始者、張献忠。かつて明朝を震撼させた”西賊”が、今、この山に駐屯している。誰が予想しただろうか、この後に起こることを。この冬の朝は、歴史を塗り替えることになる。
【張献忠、最後の狂奔】
張献忠という名前は、明朝末期には知らぬ者はいないほどだった。彼を”人殺し”と呼んでも過言ではない。彼は行く先々で殺戮を繰り返し、明朝を大いに苦しめた。しかし今、この”西賊”も、いよいよ終わりを迎えようとしていた。
1644年、張献忠は李自成に倣い、成都で皇帝を名乗り、国号を大西とした。しかし、皇帝としての期間は長くは続かなかった。清軍が関内へ侵攻し、明朝が滅亡、新たな時代が到来したのだ。清朝は豪格という親王を派遣し、張献忠を討伐させようとした。
張献忠は、自分の兵力では清軍に勝てないと悟っていた。彼は逃亡を企て、まず劉進忠という将軍を派遣して清軍を食い止めさせた。自身は食糧を奪い、長江を下って故郷へ逃げるつもりだった。ところが、食糧を奪うどころか、打ちのめされてしまった。張献忠は西充の鳳凰山へ逃げ込むしかなかった。
【最後の狂気】
張献忠はもはや行き詰まっていた。彼は鳳凰山に大営を築き、故郷へ戻って再起を図るという夢を見ていた。しかし、死神はすでに彼のすぐそばまで迫っていた。
1月2日の朝、鳳凰山は霧に包まれていた。清軍はその霧に乗じて山に忍び寄り、山の裏に潜んでいた。豪格は数騎の騎兵を率い、裏切り者の劉進忠の案内で、張献忠の大帳の近くまでひそかにたどり着いた。
張献忠はその時、逃亡してきた大臣の妻を尋問していた。突然、斥候が駆けつけ、清兵が数騎でやってきたと報告した。張献忠は信じようとせず、その斥候を殺そうとした。しかし、次々と斥候がやってきたため、張献忠はようやく事態を把握した。
【鳳凰山で命を落とす】
張献忠は急いで馬小屋へ駆け寄り、愛馬の西域馬に跨った。鎧を着る暇もなく、黄色の袍を羽織り、短い槍を手に、数人の兵を連れて飛び出した。
その時、霧が少し晴れ、豪格は向かいの丘に十数人が走ってくるのを見た。豪格は張献忠を知らなかったが、裏切り者の劉進忠は知っていた。劉進忠は一目で、大きな馬に跨った黄袍の男を見つけ、「あれだ!あの黄袍を着ているのが張献忠だ!」と叫んだ。
豪格は何も言わず、配下の弓の名手に矢を射させた。張献忠が反応する間もなく、一本の矢が彼の左胸を貫き、心臓を射抜いた。こうして、風雲児であった”西賊”は、あっけなく命を落とした。死ぬ間際に彼は「やはり清兵か」と呟いたという。
【大西軍の末日】
張献忠の死により、大西軍はたちまち混乱に陥った。清軍は追撃し、張献忠の兵を四方八方に蹴散らした。張献忠の首は切り落とされ、清軍の大営へ送られた。
これにより、大西軍はリーダーを失った。張献忠の4人の養子、李定国、孫可望、艾能奇、劉文秀が主導権を握った。彼らは協議の末、南明の永暦帝に投降し、反清復明を掲げることを決めた。
【4兄弟の異なる運命】
しかし、この4兄弟のその後の運命は大きく異なった。孫可望は李定国と仲違いし、最終的に清朝に投降した。清朝は彼を義王として遇したが、間もなく病死した。艾能奇は頑固な男で、南明朝廷の冊封を受け入れなかったが、抗清を続けた。最終的に雲南での戦いで戦死した。劉文秀は南明に投降後、数々の勝利を収めたが、後に昆明で病死した。
李定国は最も長く抵抗を続けた。彼は1659年まで残党を率いて抗清を続け、最終的に中緬国境で病死した。彼の部下は決して投降しようとせず、現地に根を下ろし、現地の人々と結婚して子孫を残した。彼らは自らを”掛家”と呼び、死後には祖国に向かって”望郷台”に葬られた。地元の人々は李定国のために”漢王廟”を建て、今もなお香火が絶えない。
張献忠のこの歴史は、実にドラマチックだ。かつて風雲児であった農民反乱の指導者が、最後はこんなにあっけなく死んでしまうとは。矢一本で心臓を射抜かれ、あっという間になくなってしまう。歴史とは、時にこんなにも予想外なものなのだと痛感させられる。
そして、張献忠の4人の養子たちの結末もまた、それぞれ異なっている。投降した者もいれば、最後まで抵抗した者もいる。これは、現代の職場物語を彷彿とさせる。社長が倒れた途端、部下たちはそれぞれの道を探し、別の会社へ移籍する者もいれば、起業を続ける者もいる。結果は当然、それぞれ異なる。
歴史は私たちから遠く離れているように思えるが、よく考えてみると、登場人物たちの喜怒哀楽は、私たちと何ら変わりはない。それこそが、歴史の魅力なのかもしれない。歴史は、数百年前も今も、人間の本質は変わらないことを教えてくれる。ただ、舞台が違うだけなのだ。