現在の上海は、経済の中心地として知られる国際都市ですが、20世紀初頭にはすでに大都市でした。当時の上海を牛耳っていたのが、青幇という地元の勢力です。青幇は、もともと黄金栄の妻である林桂生が創設し、その後発展しました。そして、青幇で最も有名な人物といえば、黄金栄、杜月笙、張嘯林の三大ボスでしょう。
彼らは単なるギャングのボスではなく、大きな影響力を持っていました。特に杜月笙は、その人柄で一時代を築きました。1930年代に日中戦争が勃発すると、黄金栄と杜月笙は信念を貫き、日本人に屈することなく上海を離れました。しかし、張嘯林は違いました。彼は公然と日本に投降し、漢奸(売国奴)となったのです。
日中戦争中、食糧や石炭などの資源は不足していましたが、張嘯林は日本軍にこれらの物資を提供し、国難を利用して私腹を肥やしました。彼の行為は、人々の怒りを買いました。後に張嘯林は傀儡政府の省長に就任しましたが、蒋介石は戴笠の軍統局に彼の暗殺を命じました。1940年8月、張嘯林は部下の林懐部によって自宅で射殺されました。実は、張嘯林の息子である張法堯は、杜月笙の義理の息子だったのです。では、張嘯林の死後、杜月笙は張法堯をどのように遇したのでしょうか?そのやり方は、まさに杜月笙らしいものでした。
杜月笙は人付き合いが上手く、張嘯林の死後も、張法堯に対して出来る限りのことをしました。張法堯は学がなく、特に張嘯林が成功してからはそうでした。杜月笙は、張嘯林に張法堯を海外に留学させることを勧めました。海外で数年過ごした張法堯は、法学博士の学位を取得しました。張嘯林の死後、杜月笙は張法堯のために弁護士事務所を開業させました。
しかし、張法堯は本性を変えることができず、アヘンを吸い続け、すぐに財産を使い果たしてしまいました。最後は、アヘン中毒で路地裏で亡くなりました。一方、杜月笙の子孫は、それぞれの分野で才能を発揮しています。子供の教育という点では、杜月笙は張嘯林よりもはるかに優れていたと言えるでしょう。