1644年、中国史における悪夢「甲申の変」が中華を震撼させた。北京陥落、明朝滅亡。遠く離れた西南の四川は、まだその事態を知らずにいた。そんな激動の時代、重慶に迫る一軍があった。その名は、人々を恐怖に陥れる張献忠。
当時の重慶は、山に囲まれ、川に守られた難攻不落の城塞都市だった。しかし、内部の混乱と失策が、その堅牢さを脆くも崩れ去らせる。張献忠の大軍が押し寄せる中、重慶は彼の新たな獲物となるのか?
城が陥落した日、張献忠は捕虜にした官僚や兵士たちにどんな仕打ちをしたのか?なぜ「三万の兵士が右手を切り落とされた」という悲惨な伝説が生まれたのか?血なまぐさい虐殺の中で、一体何が起こったのか?重慶の陥落は、四川、そして西南地域全体にどのような影響を与えたのか?
崇禎17年(1644年)2月、明朝は風前の灯火だった。李自成率いる大順軍が北で虎視眈々と機会をうかがい、南にはもう一つの無視できない勢力、張献忠の大西軍がいた。流民と農民で構成されたこの軍は、湖広一帯で連戦連勝し、勢いを増していた。
張献忠は「八大王」と呼ばれ、規律正しく、戦術に長けていた。湖広地域に強固な拠点を築いていたが、彼の野心はそれだけにとどまらなかった。彼は西の四川に目を向けた。豊かな土地は、彼の新たな征服目標となった。
2月上旬、張献忠は大軍を率いて湖広を出発し、西へ進軍を開始した。最初に立ちはだかったのは、四川東部の要衝、夔門だった。夔門は地形が険しく、古来より兵家必争の地とされてきた。明軍はここに厳重な防御を敷き、天険を利用して張献忠の進軍を阻止しようとした。
しかし、張献忠には準備があった。彼は精鋭部隊を派遣し、夜陰に紛れて険しい山道から夔門守備隊の背後に回り込ませた。同時に、主力部隊は正面から猛攻を仕掛けた。この挟み撃ち戦術に、守備隊は対応しきれなかった。激戦の末、夔門はついに張献忠の手に落ちた。
夔門の陥落は、四川への扉が開かれたことを意味した。張献忠は破竹の勢いで追撃し、すぐに巫山県も攻略した。明軍の参将、曾英は部隊を率いて和市の要衝を守り、張献忠軍の進撃を阻止しようとした。しかし、勢いに乗る張献忠の大軍を前に、曾英は最終的に部隊を撤退させ、涪州に退却せざるを得なかった。
張献忠がさらに西へ進軍しようとした時、天は明軍に一縷の望みを与えようとしたかのようだった。数週間続く大雨が降り注ぎ、川は増水し、道は泥濘と化した。突然の悪天候により、張献忠は進軍を遅らせざるを得なかった。
そこで張献忠は、夔門、巫山一帯でしばらくの間、休息を取ることにした。その滞在期間は、なんと3ヶ月にも及んだ。この間、張献忠は無為に過ごしていたわけではない。彼は四川の政治・軍事状況を探らせる一方、兵員を補充し、武器装備を整備した。同時に、地元の民心をつかむため、軍隊による地方への圧力を軽減することにも努めた。
この3ヶ月の休息期間は、張献忠にとって貴重な戦略的機会となった。彼は疲弊した兵士たちを十分に休ませただけでなく、様々なルートを通じて四川に関する多くの情報を収集した。これらの準備が、その後の軍事作戦のための強固な基盤となった。
5月、雨季が終わり、天気は回復した。張献忠は好機と判断し、直ちに大軍に出発を命じ、重慶に向けて進軍を開始した。豊都を経由した際、張献忠軍は明末の女将、秦良玉の抵抗に遭遇した。秦良玉は城に立てこもり、張献忠軍との正面衝突を避けた。張献忠は時間が差し迫っていることを考慮し、豊都を迂回し、忠州を直接攻撃することにした。
忠州の守将、趙栄貴は奮戦したが、多勢に無勢で、城はすぐに陥落した。張献忠は勢いに乗って追撃し、6月7日、大軍は涪州城下に到達した。涪州は重慶の外郭を固める重要な拠点であり、曾英が軍を率いて守備していた。双方は城下で激しい戦いを繰り広げたが、最終的に曾英は再び敗退し、涪州は張献忠軍の手に落ちた。
こうして、張献忠の四川侵攻の第一段階はほぼ完了した。夔門から涪州まで、張献忠は約4ヶ月の時間をかけて着実に進軍し、その後の重慶攻撃のための有利な条件を作り出した。一方、この時の重慶守備隊は、さらに大きな嵐が近づいていることをまだ知らなかった。
張献忠の大軍が近づくにつれて、重慶城内の状況はますます緊迫していった。しかし、情報伝達の遅れから、重慶の官僚や民衆は、北方で起こっている大変動についてまだ何も知らなかった。彼らはまだ滅亡した王朝への忠誠のために苦労しており、それは滑稽で悲壮な歴史的状況を作り出した。
甲申の変後、四川の政治情勢は大混乱に陥った。4月17日、朱彝之という武挙人が北京から遠路はるばる成都に戻り、京が陥落し、崇禎帝の消息が不明であるという悲報をもたらした。このニュースは重慶官界に衝撃を与えた。
これを知った四川の文武官僚は極度の混乱に陥った。蜀王朱至澍を擁立して摂政監国とし、政権の正統性を維持すべきだと主張する者もいた。しかし、この提案は四川巡按の劉之渤によって断固として反対された。劉之渤は、たとえ京が陥落したとしても、皇帝は一時的に身を隠しているだけであり、この時点で蜀王を監国にすることは僭越にあたると考えた。
このような状況下で、四川の最高責任者である新任巡撫、龍文光の態度が特に重要となった。しかし、龍文光は当時、四川北部に滞在しており、最も緊急な事態が発生している重慶からは遠く離れていた。この新任の川撫は元々川北道台であり、人格者ではあったものの、危機処理にはやや遅れが見られた。
一方、重慶城内の状況も楽観視できるものではなかった。罷免された前四川巡撫の陳士奇はまだ重慶に滞在していた。彼は事態の深刻さを察知し、直ちに龍文光に救援を求めた。しかし、援軍を待つ時間は長く苦痛だった。
重慶城の防御施設は本来、難攻不落であるはずだった。山と川に囲まれたこの都市は、三方を川に囲まれ、地形も険しかった。城壁は高く厚く、備蓄も十分で、守備兵の数も少なくなかった。しかし、これらの利点は張献忠の大軍を前にして、あまり頼りにならないように思われた。
まず、守備兵の士気が大きな問題だった。朝廷が滅亡したことで、多くの兵士が反乱軍と戦う意義に疑問を持ち始めた。次に、城の指揮系統に混乱が生じた。龍文光が着任するまで、重慶城内の最高軍事責任者が誰なのかが明確でなかった。これにより、意思決定プロセスが遅延した。
さらに悪いことに、城内の食糧備蓄にも問題が生じていた。表向きは重慶の食糧は十分にあるように見えたが、実際には長年の汚職や流用により、実際の備蓄量は帳簿上の数字をはるかに下回っていた。長期の包囲に遭遇した場合、食糧不足は致命的な弱点となるだろう。
一方、張献忠の大軍は着実に重慶に向けて進軍していた。彼らの電撃的な都市攻略のスピードは、重慶守備隊の予想をはるかに上回っていた。陥落する都市が増えるたびに、重慶へのプレッシャーは増大していった。
このような内憂外患の状況下で、重慶城内には不安の兆候が見え始めた。密かに食糧を買い占める者もいれば、逃亡を準備する者もいた。一部の官僚は、降伏の可能性を検討し始めていた。まだ公然と口に出せる考えではなかったが。
そんな時、意外なニュースが重慶に届いた。張献忠が攻撃の途中で、謎の山岳部隊の妨害に遭ったというのだ。この部隊は地形を利用した戦術に長けており、張献忠軍に少なからぬ損害を与えたという。このニュースは重慶守備隊に一縷の希望をもたらしたが、軍の士気を安定させるために誰かが意図的に流したデマではないかと疑う者もいた。
時間が経つにつれて、重慶城内の雰囲気はますます緊張していった。誰もが、決定的な瞬間が近づいていることを知っていた。張献忠の大軍はいつ到着するのか?重慶はこの攻撃に耐えられるのか?かつて繁栄したこの都市は、今、風前の灯火であり、運命は不透明だった。
崇禎17年(1644年)6月18日、張献忠の大軍がついに重慶城下に到達した。長距離の行軍で疲労していたものの、軍の士気は高かった。彼らは城外に陣を張り、間近に迫った攻城戦の準備を始めた。
張献忠は重慶城の防御施設が堅固であることをよく知っており、正面から強攻すれば大きな犠牲が出る可能性があると考えた。そこで彼は、戦わずして敵を屈服させようと、様々な策略を講じた。まず、張献忠は使者を送り、城内に向けて投降を勧告した。彼は、城を開けて降伏すれば、誰も殺さないと約束した。しかし、この降伏勧告は功を奏さず、重慶守備隊は依然として城を守り続けた。
降伏勧告が失敗に終わったため、張献忠は包囲戦術を採用することにした。彼は部隊に城外に陣地を構築させ、重慶と外界との連絡を遮断した。同時に、彼は小部隊を派遣し、城壁を絶えず攻撃し、守備兵の体力と士気を消耗させることを目論んだ。
重慶守備隊は当初、効果的な反撃を行うことができた。彼らは城壁の火砲を利用して、張献忠軍の陣地を砲撃し、一定の損害を与えた。しかし、時間が経つにつれて、守備兵の弾薬は徐々に底をつき、反撃の勢いも弱まっていった。
包囲5日目、張献忠は全面攻撃を開始することを決意した。彼は城壁の西側にある比較的脆弱な箇所を主攻撃目標に選んだ。張献忠軍の兵士たちは、梯子を担ぎ、火力支援を受けながら城壁に猛烈な突撃を仕掛けた。守備兵は必死に抵抗し、城壁の上で激しい肉弾戦が繰り広げられた。
その時、城内から突然騒ぎが聞こえてきた。なんと、食糧倉庫が火災を起こし、大量の食糧が焼失したのだ。この事態は、守備兵の士気を大きく低下させた。抵抗を続ける意味を疑い始める者もいれば、勝手に持ち場を離れる兵士もいた。
張献忠は守備兵の動揺を敏感に察知した。彼は直ちに攻撃を強化するよう命じ、精鋭部隊を城の東側にある秘密の門から突入させた。この部隊は守備兵の防衛線を突破し、城内に大きな混乱を引き起こすことに成功した。
内と外からの挟み撃ちに遭った重慶守備隊の防衛線は、すぐに崩壊した。一部の将軍は部隊を率いて降伏し、また一部は決死の抵抗を選んだ。城内は大混乱に陥り、至る所から殺戮の音と悲鳴が聞こえてきた。
6月23日、重慶城はついに完全に陥落した。張献忠は大軍を率いて城内に入り、支配を開始した。しかし、それは悪夢の始まりに過ぎなかった。
張献忠の降伏兵や捕虜に対する扱いは、極めて残忍だったと言えるだろう。まず、彼は降伏したすべての官僚を集め、尋問を行うと発表した。しかし、このいわゆる尋問は、すぐに残酷な虐殺へと変わった。記録によると、数百人の官僚が斬首され、見せしめとして彼らの頭が城壁に吊るされた。
一般兵士に対して、張献忠はさらに異様な処置をとった。彼はすべての捕虜の右手を切り落とし、解放するよう命じた。この行為は大きな苦痛を与えただけでなく、兵士たちが再び武器を手に取る能力を奪った。右手首を切断された兵士は3万人に達したという噂があるが、この数字は誇張されている可能性があるものの、虐殺の規模の大きさを物語っている。
城の民間人も難を逃れることはできなかった。張献忠の軍隊は城内で略奪、放火、強姦など、あらゆる悪行をほしいままにした。多くの家庭が完全に破壊され、女性や子供たちが虐待された。屈することを拒んだ一部の住民は、最後の尊厳を守るために自殺を選んだ。
しかし、張献忠の残虐行為はそれだけでは終わらなかった。彼はまた、城内の学校や図書館を焼き払い、貴重な古典や文化財を焼き尽くさせた。この行為は、莫大な文化的損失をもたらしただけでなく、重慶の文教の伝統を完全に破壊した。
その後の数日間、重慶城は恐怖と絶望の雰囲気に包まれた。街には死体が散乱し、空気中には血なまぐさい臭いと焦げ臭い臭いが漂っていた。生き残った住民は家に隠れ、次の犠牲者になることを恐れて外出することをためらった。
張献忠が重慶を陥落させたというニュースは、すぐに四川全土に広まった。この事件は、明朝が西南地域で最後に築いた防衛線が崩壊したことを意味するだけでなく、より大規模な混乱が間近に迫っていることを予感させた。重慶の陥落は、張献忠による四川支配の始まりとなり、この土地で最も暗い歴史の一幕となった。
重慶陥落後、張献忠はこの都市の支配を開始した。その支配は短期間だったものの、重慶に消すことのできない傷跡を残した。張献忠の支配方法は一言で言うと「暴虐」だった。
まず、張献忠は重慶を徹底的に略奪した。彼は軍隊にすべての家を捜索させ、金目のものをすべて奪い去るよう命じた。金銀財宝はもちろんのこと、一般家庭にある銅鍋や鉄釜さえも容赦なく奪い去った。この略奪により、重慶の経済は瞬く間に崩壊し、多くの家庭が一夜にして貧困に陥った。
次に、張献忠は重慶の社会秩序を再構築し始めた。彼は既存の行政システムを廃止し、軍事化された管理体制に置き換えた。城はいくつかの地区に分割され、各地区は張献忠軍の将軍が管理を担当した。これらの将軍は生殺与奪の権力を持ち、気まぐれに罪のない住民を処刑することも頻繁にあった。
文化面では、張献忠はほぼ絶滅に近い政策を採用した。彼は大量の本を焼き払っただけでなく、あらゆる形態の読書や教育活動を禁止した。密かに知識を伝えようとした教師が見つかると、残酷な罰を与えられた。生き埋めにされたり、豚小屋に投げ込まれたりする者もいた。このような行為により、重慶の文化伝承はほぼ途絶えてしまった。
宗教も難を逃れることはできなかった。張献忠は仏教と道教に対して異なる態度をとった。彼は城内のほとんどの仏教寺院を破壊し、仏像を溶かして金銀に変えるよう命じた。一方、道教に対しては一定の寛容さを示し、占い師として道士を招くことさえあった。しかし、その寛容さには限界があった。ある道士の予言が張献忠を怒らせたとき、その道士は直ちに処刑され、彼の寺院も平らにされた。
経済政策では、張献忠は極端な略奪的なやり方をとった。彼は高額な税を強制的に徴収し、住民に自分の子供を奴隷として差し出すことさえ要求した。この行為は深刻な人口流出を引き起こし、多くの人々が命の危険を冒して重慶から逃げ出した。
しかし、逃げることは容易ではなかった。張献忠は城門に厳重な検問所を設け、逃げようとした者は捕まると残酷な罰を与えられた。斬首されたり、生き埋めにされたりする者もいた。城外の丘には、かつて生き埋めにされた人々の遺骨が今でも見つかるという。
張献忠の支配はまた、一連の社会問題を引き起こした。多くの男性が殺されたり、奴隷として徴用されたりしたため、重慶では深刻な労働力不足が発生した。農地は耕されず、工場は操業されず、都市全体の生産はほぼ停止状態に陥った。同時に、衛生状態の悪化と死体の不適切な処理により、疫病が城内で蔓延し始めた。
このような状況に直面して、張献忠は驚くべき対応策をとった。彼はすべての病人を集め、生き埋めにするよう命じた。この行為は伝染病を食い止めるどころか、住民のパニックと彼の支配に対する憎しみを煽った。
張献忠の支配下で、重慶の人口は激減した。わずか数ヶ月の間に、城の人口は約半分に減少したと推定されている。無人になった地域もあれば、家屋が倒壊しても修理する人がおらず、雑草が生い茂っていた。かつて繁栄した商業地区はゴーストタウンと化し、廃墟には野犬がうろついていた。
しかし、このような困難な状況下でも、重慶の人々は完全に希望を捨てたわけではなかった。困窮している隣人を密かに助け合うために、秘密裏に組織された人々もいた。将来いつの日か日の目を見ることを願って、命の危険を冒して本を隠した人々もいた。また、張献忠の支配を打倒しようと密かに蜂起を計画する人々もいた。
張献忠は民間の動きを察知していたようだ。彼はますます疑心暗鬼になり、残忍さを増し、些細なことで身の回りの人々を処刑した。彼は自分の影さえ疑い始め、深夜に目を覚まして大声で吠えることもあったという。
そんな時、意外なニュースが重慶に届いた。清軍が南下を開始し、間もなく四川に侵攻するというのだ。このニュースは重慶の人々に一縷の希望を与えたが、新たなパニックに陥らせた。彼らは、自分たちを待ち受けているのが新たな解放なのか、それとも別の災難なのかを知らなかった。
崇禎17年(1644年)9月、張献忠の重慶支配は突然終わりを迎えた。清軍の南下というニュースは、重慶の人々の耳に届いただけでなく、張献忠軍にも届いた。この新たな脅威に直面して、張献忠は重慶を放棄し、南西方向に進軍することを決意した。
張献忠が重慶を去る過程は、まさに災害と呼ぶにふさわしいものだった。彼は城内にあるすべての持ち運べる財産を船に積み込み、川を下る準備をした。しかし、時間がなかったため、多くの貴重品を放棄せざるを得なかった。張献忠の部下は、清軍の手に渡るのを防ぐため、大量の金銀財宝を川に投げ込んだという。
撤退前夜、張献忠は恐ろしいことを行った。彼は持ち運べないすべての捕虜と奴隷を処刑するよう命じた。虐殺は丸一日続き、重慶城内には再び悲鳴と叫び声が響き渡った。川面には死体が溢れ、血で川が染まった。
張献忠が去った日、重慶城は悲しみに包まれた。彼の軍隊は堂々と去っていったが、後に残されたのは荒廃した都市だった。多くの建物が焼き払われ、街には死体と廃墟が散乱していた。生き残った住民は家に隠れ、この悪夢がついに終わったことを信じられなかった。
しかし、張献忠の去った後も、重慶の苦難が終わったわけではなかった。彼が残した一部の残党兵は、城内で略奪を始めた。彼らは指揮官の拘束を失い、さらに残忍で予測不可能になった。彼らは民家を襲い、財産を奪い、女性を強姦した。抵抗しようとした住民は、その場で殺された。
そんな時、思いがけない事件が起こった。張献忠の後衛部隊が撤退中に地元の農民と衝突したのだ。この部隊は本来、殿を務めるはずだったが、ある村を通過する際、食糧を奪ったことで村人と口論になった。口論はすぐに武力衝突に発展した。
ニュースが広まると、周辺の農民が鍬を手に取り、戦闘に加わった。彼らは地形を利用して、張献忠軍にゲリラ戦を展開した。戦闘は数日間続き、最終的に張献忠軍は敗北し、残りの兵士は四方八方に逃げ去った。
この事件は重慶の人々に大きな勇気を与えた。城の住民は組織を組み、残党兵の掃討を開始した。かつて張献忠に仕えていた官僚や軍人も逮捕され、処刑されたり、裁判を待つために刑務所に収監されたりした。
同時に、重慶の復興作業も始まった。生き残った官僚は人員を組織し、街を清掃し、死体を埋葬し、破壊された建物を修復した。逃げ出した住民も続々と戻り始め、生活を再開した。
しかし、復興の過程は順調には進まなかった。大量の労働力が失われたため、多くの仕事を進めることが難しかった。さらに悪いことに、死体の不適切な処理により、疫病が再び城内で蔓延し始めた。この疫病は数ヶ月間続き、さらに多くの人々の命を奪った。
このような困難な状況下で、予想外の変化が起こり始めた。もともとの階級の境界線が曖昧になり、張献忠軍との戦いや復興で優れた働きをした一部の平民が昇進した。同時に、財産と地位を失った元の官僚や富豪の一部は、平民に没落した。この社会構造の変化は、重慶の将来の発展のための伏線となった。
時間が経つにつれて、重慶は徐々に秩序を取り戻した。しかし、張献忠が残した影は長く消えることはなかった。多くの人々が今も恐怖の中で暮らし、夜中に悪夢にうなされることが頻繁にあった。宗教に慰めを求める人もおり、仏教と道教が民間で再び台頭した。
同時に、清軍の南下の足音はますます近づいていた。重慶の官僚と住民は、自分たちを待ち受けているのがどのような運命なのかを推測していた。抵抗を主張する者もいれば、降伏を主張する者もおり、議論は絶えなかった。
そんな不安な雰囲気の中、ニュースが届いた。張献忠が四川省内で清軍に遭遇し、大敗を喫したというのだ。このニュースは人々を安心させた一方で、新たな懸念も抱かせた。張献忠の脅威は一時的に解消されたものの、清軍の到来が何を意味するのか、誰も確信を持てなかった。
重慶、この災難を経験した都市は、歴史の岐路に立っている。その未来は、間もなくやってくる新たな支配者によって決定されるだろう。そして、重慶の人々は複雑な思いを胸に、歴史の新たな章の幕開けを待ち望んでいる。