01 出発!高平陵
正始十年(西暦249年)、魏の皇帝・曹芳は恒例の行事として、高平陵(現在の河南省洛陽市東南)にある魏の明帝・曹叡の陵墓を参拝することになりました。
曹爽とその弟である曹羲、曹訓、曹彦も随行し、曹爽とその一派はほぼ全員が出動しました。
大司農
桓范
は、この状況を見て曹爽に忠告しました。
「大将軍兄弟は万機を総べ、禁兵を掌っています。全員が外出するのは適切ではありません。もし誰かが城門を閉ざして政変を起こしたらどうするのですか?」
曹爽は不機嫌そうに言いました。「誰が反乱を起こすというのだ!」
そして、兄弟と側近のほぼ全員を連れて高平陵に出発することを強行し、桓范は洛陽に留まることを選択しました。
当時、曹爽は夢にも思っていなかったでしょう。出発時は、儀仗が空を覆い、護衛が雲のようにいましたが、帰還時は、冷たい風と雨に打たれることになるとは……。
02 反乱の時
曹爽グループが出城する前日の夜、司馬懿の末息子・司馬昭は一睡もできず、興奮していました。
この夜、父・司馬懿から厳かに告げられたからです。
「明日は我が司馬一族の運命が決まる日だ」
この知らせを聞いた司馬昭は、緊張か興奮か分かりませんが、寝返りを打ち続け、一晩中眠れませんでした。
一方、兄の司馬師は、すでに父の計画に参加していたため、胸を張って熟睡していたはずです。
曹爽一行が出城したとの知らせが入ると、「病気療養中」の司馬懿はすぐに鎧を身につけ、司馬師、司馬昭を連れて馬に乗り、家を飛び出しました。
この時、司馬師はすでに密かに3000人の決死隊を育成しており、この時を待っていました。
当時、城に残っていた多くの官僚は、司馬懿のかつての部下であり、この状況を見て、そのほとんどが司馬家の陣営に加わりました。ごく一部の人々だけが、静観することを選びました。
政変が始まり、司馬一族は真っ先に洛陽の各城門を閉鎖し、司馬師、司馬昭は兵を率いて武器庫と皇宮を制圧しました。
洛陽城を制圧した後、司馬懿は高柔に仮節を与えて大将軍の職を代理させ、王観に中領軍を代理させ、それぞれ曹爽と曹羲の軍権を奪いました。
曹爽が洛陽城に残した多くの中下級軍官や兵力は、実はかなりの数でしたが、リーダーがいなかったため、司馬家の陣営に寝返りました。
これらの準備がすべて整うと、司馬懿は朝廷の重臣を連れて入宮し、皇太后・郭氏に曹爽が宮廷内外を混乱させている数々の悪行を報告し、すべて根拠があり、曹爽を死地に陥れるものでした。
これに対して、郭太后は何も言えず、司馬懿の以前の行動を合法的なものであり、反乱ではないと追認するしかありませんでした。同時に、司馬懿に特別捜査班を設立し、曹爽の違法行為を徹底的に調査する権限を与えました。
郭太后の承認を得た司馬懿は、遠く城外にいる曹芳に上表し、曹爽の罪状を一つ一つ列挙しました。同時に、司馬懿は自ら兵を率いて洛水橋頭を占拠し、曹爽の反撃に備えました。
03 混乱する曹爽
高平陵にいた曹爽は、司馬懿の一連の奇襲に完全に混乱しました。間もなく、司馬懿から皇帝・曹芳への上奏文を受け取り、読んだ後、曹爽は完全に茫然自失となりました。
実際、この時、司馬懿はまだ洛陽城を完全に掌握していたわけではありませんでした。当時、曹爽の屋敷にいた司馬魯芝、辛敞が曹爽に緊急の知らせを伝えようと脱出しました。
そのため、曹爽は対応する時間が十分にありました。結局、皇帝・曹芳はまだ彼の手にあったのですから。しかし、この時の曹爽の反応は、まさに無能さを露呈していました。彼はしばらく躊躇し、最後に2つの対応策を絞り出しました。
第一に、全員を高平陵に野営させること。
第二に、周辺の数千の屯田兵を調達し、自分の警備兵力を増強すること。
これは、大将軍が政変に直面した時の反応ではありません。まさに小心者の極みです……。
04 桓范、緊急出城
曹爽の反応は司馬懿の予想通りでしたが、彼がもっと心配していたのは、城に残っている桓范でした。
そのため、司馬懿は洛陽城を封鎖した後、すぐに郭太后の名義で桓范を召喚し、彼を中領軍に任命し、桓范を自分の陣営に引き入れようとしました。
権力の誘惑は、確かに桓范を躊躇させました。しかし、彼の息子は彼に忠告しました。
「今、皇帝の車駕はまだ外にあり、曹爽グループの勢力も侮れません。今は勝敗が予測できないので、まずは城外に出て曹爽と合流し、反乱鎮圧の功臣になることを目指しましょう。」
桓范は息子の言うことは理にかなっていると思い、出城を決意しました。
桓范が単身で平昌城門に駆けつけた時、城門はすでに閉まっていました。当時、守備をしていた門候・司蕃は、ちょうど桓范のかつての部下でした。桓范は彼を呼び出し、手に持っていた令牌を掲げて見せ、「皇帝の勅命だ。私を高平陵に召喚する。早く城門を開けろ!」と偽の命令を出しました。
司蕃は信用せず、桓范に詔書を見せるように求めました。すると、桓范は大声で叱責しました。「お前は私の古い部下ではないか。今、どうしてそんなに無礼な態度をとるのか?皇帝の詔書をお前が見ることができるはずがないだろう!」
司蕃は、この老上司の勢いに圧倒され、城門を開けさせました。
桓范は素早く馬を走らせて城門を飛び出し、振り返って司蕃に叫びました。「太傅が反乱を起こしたぞ!早く私と一緒に勤王しろ!」司蕃は唖然としました。
司馬懿は桓范が城から逃げ出したことを知っても、慌てませんでした。彼は曹爽の無能さをよく知っていたからです。桓范が策略に長けていても、曹爽はきっと採用しないだろうと。
しかし、万が一のために、司馬懿は使者を派遣して曹爽を落ち着かせようとしました。
まず、司馬懿は弟の司馬孚を高平陵に派遣し、皇帝が野宿することはできないという理由で、天幕や太官の食器を曹芳に届けさせました。その後、曹爽の親友を説得役として派遣し、自分はただ権力を奪いたいだけで、彼の命を奪うつもりはないと安心させました。さらに、太尉・蒋済の手紙を送り、司馬懿は曹爽の手にある権力を奪うだけで、彼らに危害を加えるつもりはないと慰めました。
説得する人が増え、曹爽は信じてしまいました……。
05 曹爽、最後のチャンス
この時、桓范はすでに高平陵の曹爽の陣営に到着していました。彼は曹爽の動揺を見て、当時の最良の提案をしました。彼は言いました。
「困難に直面した時の反撃は、人の常です。大将軍は天下の兵馬を動員することができます。洛陽周辺には多くの部隊がいます。高平陵から許昌までは1日の距離しかありません。許昌の武器庫は、大将軍の費用を十分に賄うことができます。私は大司農として、印綬を持参しました。大軍の兵糧を調達するのに十分です。大将軍はすぐに皇帝を擁護して許昌に南下し、逆賊・司馬懿を討伐すると宣言すべきです!」
なぜ桓范の提案が最良だったのか。
第一に、曹爽は幼い皇帝・曹芳を掌握していました。「天子を擁して諸侯に令す」という戦略は、曹操が用いたことがあり、その効果は説明するまでもありません。
第二に、曹爽の側近勢力は当時ほぼ総出であり、印綬はすべて手元にありました。言い換えれば、権力は依然として手の中にあったのです。特に曹爽と曹羲は、天下の兵馬を動員する権限を持っており、桓范は大司農として、軍事物資を合法的に調達することができました。
第三に、曹操の本拠地・許昌は、かつて漢の献帝が「令」されていた場所であり、長年の経営により、城郭は雄大で、兵糧は豊富でした。進んで洛陽を討伐することも、退いて司馬懿と対峙することもできました。
しかし、曹爽は本当に愚か者で、桓范の提案に対して、彼は決心することができませんでした。
桓范は、曹爽に比べて、曹羲はまだ分別のある人物だということを知っていたので、曹羲のそばに行き、こう忠告しました。
「今、事態は非常に明白になっています。あなたは一体何のために勉強してきたのですか?今日のよう皇室の安危に関わる重大な瞬間に決断を下すためではないのですか?」
「あなたは今でも洛陽城南の駐屯軍を指揮することができます。もし彼らに護衛を命じれば、早ければ半日で許昌に到着することができます。さらに、皇帝が降臨すれば、許昌は必ず門を開けて歓迎するでしょう。一般人でも追い詰められれば人質を取ろうとすることを、私たちは天子を伴って天下に号令をかけることができるのです。誰が従わないでしょうか?」
残念なことに、桓范のこの誠実な忠告にもかかわらず、曹爽、曹羲の二人は黙ったままでした。最後に、大将軍・曹爽はただ一言、「もう少し考えさせてくれ」と言いました。
曹爽は一晩中考えました。一方には司馬懿の約束があり、もう一方には冒険的な戦いがあり、曹爽はこれほど困難な政治的選択に直面したことがありませんでした。彼は苦悩しました。
翌日の午前5時、曹爽は陣営に集まった人々を見て、突然、机の上の剣を床に叩きつけ、大声で言いました。
「太傅の意図は、ただ権力を争うことにあるだけだ。私が権力を手放せば、依然として金持ちの道楽者でいられる。」
この言葉を聞いた桓范は、一気に泣き出し、曹氏兄弟を罵りました。「曹大将軍は、どうしてあなたたちのような豚を生んだのだ!私が今日、一族皆殺しにされるとは思いもしなかった!」
こうして、曹爽は桓范が彼に提供した唯一の生き残る可能性のある決断を放棄し、司馬懿の屠殺場へと向かいました……。
そして桓范は、泣きながら陣営を離れ、孤独な帰路につき、自分の結末を迎える準備をしました。
06 運命づけられた結末
曹氏の結末は、本当に運命づけられていました。
桓范が去った後、曹爽はすぐに司馬懿が自分を弾劾した上奏文を曹芳に提出し、自ら官職を免除するように要請しました。幼い曹芳は、その利害関係を理解しておらず、曹爽を罷免しました。
同時に、曹爽は自分の大将軍印綬を取り出し、司馬懿に送ろうとしました。主簿・楊綜は曹爽を引き止め、「大将軍印綬を渡せば、命が危ないかもしれません!」と言いました。曹爽は無邪気に答えました。「太傅は私との約束を破らないだろう。」
その後、曹爽一行は曹芳に付き添い、君臣は黙って洛陽に戻りました。出発時の追従者は、歩きながら散り散りになり、洛陽に到着した時には、曹爽兄弟だけが残っていました。
曹爽兄弟は、こうして憂鬱な気持ちで自分の家に帰りました。司馬懿はすぐに洛陽の800人の平民を調達し、曹府を囲み、四隅に高楼を建てて厳重に監視しました。
軟禁された曹爽は、反省もせず、反撃を企てることもせず、最後の抵抗をすることもなく、後庭で弓矢遊びを始めたのです……。
正月初十、司馬懿は謀反罪で曹爽兄弟と側近の何宴、鄧颺、丁謐、畢軌、李勝、桓范らを投獄しました。
司馬懿は桓范を見ると、「桓大夫はなぜこのようなことになったのか?」と尋ねました。桓范は黙っていました。
この日は、桓范が曹爽に高平陵に全員で行くべきではないと忠告してから、わずか5日後のことでした。
結論:
高平陵の変は、実は結果が見えている政変でした。闘争する双方の視野と能力があまりにもかけ離れていました。曹爽は高いスタート地点に立っただけで、一時的に勝利を収めましたが、政治的には極めて幼稚であり、司馬懿のような老獪な人物にとっては、チャンスさえあれば一撃で命を奪うことができました。
そして、権力闘争において、敗者は撤退の最低ラインを探す時、生命こそが最も基本的なニーズであることに気づきます。残念ながら、それはすでに贅沢品となっています。
曹爽の結末は、その最高の証明です。
END
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