えっ、マジ⁉️ 蒋介石、敗戦濃厚で五台山で出家計画⁉️ 故郷での寺巡りがヤバすぎた件😂

1949年の春節、蒋介石は故郷の奉化溪口で過ごしました。

新春佳節を迎えるとはいえ、蒋介石の心は晴れません。国内戦線では、三大戦役の敗北により、国共の勝敗はすでに決定的となっていました。

さらに大晦日には、公文書、史料、そして大量の財産を積んだ「太平輪」が台湾へ向かう途中で沈没したという知らせが届き、運命を信じる蒋介石にとって、これは不吉な予兆のように感じられました。

かつて初めて下野した際、故郷の雪竇寺でおみくじを引いたところ、大吉が出たのです。

住職は蒋介石に、おみくじに書かれた「飛龍在淵、騰骧在望」という言葉は、間もなく彼が再起できることを示していると説明しました。

数か月後、おみくじの言葉通り、蒋介石は東山再起を果たし、兵権を握り、国民党のトップに上り詰めたのです。

そのため、キリスト教を信仰していた蒋介石も、故郷の神々を信じるようになりました。しかし、彼は今や神に祈ってもどうにもならない状況だと悟っていました。

2月22日、蒋介石は最後に祖父母の墓参りを終えた後、二人の叔父に、もし敗戦したら、五台山で修行したいと告げました。

一、 迫られた下野

1948年末、解放戦争は激しい決戦段階に入りました。

一年以上の戦略防御と戦略反攻を経て、人民解放軍は遼沈、淮海、平津の三大戦役で、破竹の勢いで国民党の主力部隊をなぎ倒し、敵軍154万余人を殲滅し、国民党が支配する広大な土地を奪取しました。

AP通信はこれについて、「今後は、共産党はどこへでも行けるし、どこへでも攻め込める。もはやそれを阻止するものはない」と評しました。

解放戦争の曙光が訪れるにつれ、蒋介石の人生は暗黒の時代に入りました。

戦場では、彼が率いる国民党軍は連戦連敗を喫し、勢力を大きく減退させ、内戦を発動し、統治を維持するための主力部隊はほぼ全滅しました。

経済的には、彼が実施した幣制改革は失敗に終わり、深刻なインフレを引き起こし、国民経済は崩壊寸前でした。

国民党内部では、派閥争いが激化し、李宗仁、白崇禧に代表される桂系は彼に「速やかに下野」することを要求しました。

党内でも「すでに200人以上が下野の発表を求める署名をしている」ほどで、多くの国民党幹部は蒋介石を李宗仁の統率への障害と見なし始めていました。

蒋介石を支援してきたアメリカでさえ、彼に対する忍耐力を失い、李宗仁に取って代わらせようとしていました。

当時の蒋介石は、まさに八方塞がりの状態でした。

各方面からの圧力により、彼は1949年1月21日に引退を発表し、副大統領の李宗仁が大統領代理を務めることになりました。

蒋介石が下野したのはこれが初めてではありません。

蒋介石が国民党を半世紀にわたって率いた間、内部の権力闘争など様々な要因により、蒋介石は以前にも1927年8月、1931年12月の2度下野しています。

3度の下野、3度の復帰は、蒋介石の政治生涯を描き出し、彼の故郷である浙江省奉化に、近代史の足跡を残しました。

二、 奉化への隠遁

蒋介石は3度目の下野で、1949年1月22日に奉化の溪口鎮に戻りました。

今回の下野は、以前の2回とは状況が大きく異なりました。

以前の2回の下野は、蒋介石の退いて進むための措置であり、精力を蓄え、一時的に風当たりを避け、将来再起を図るためのものでした。

しかし今回は違います。国民党は今や崩壊寸前の大邸宅のようなものです。

嵐の前の静けさ、蒋介石も内心では、今回の帰郷が人生で最後に故郷の土を踏むことになるかもしれないと悟っていたでしょう。

そのため、今回の下野では、密かに党政に干渉し、自身の退路を確保し、各地を巡視し、神に祈り、祖先を崇拝し、明らかな衰退の中で神の庇護と導きを得ようとしました。

溪口に戻るとすぐに、蒋介石は母親の墓がある慈庵に滞在しました。

親への追憶と故郷の温かさが、彼の不安な心を慰めたようです。

蒋介石の日記には、2月3日に「経児と任宋(蒋介石の姉の墓)を訪ね、さらに法昌寺の北西の丘陵の下にある培風(蒋介石の妹の瑞蓮の息子である竺培風)の墓を訪ねた」と記されています。

4月2日には「10時過ぎに風洞の墓(順恂公)を掃除し、さらに邦福公の墓を掃除した」。

4月4日には「朝課後、元淋公の墓を掃除し……下洪岙の墓を掃除し終え、特に遇水渡の下にある積善庵を訪れ、ここを10歳の時に母と共に念仏を唱えた場所とした」。

1月22日に溪口に到着してから4月25日に出発するまで、蒋介石は何度も先祖を祭りました。

蒋介石のような迷信深い人間にとって、このような行動は驚くにあたりません。

母親の影響を受け、蒋介石は神仏に祈り、占いをすることを好みました。

先祖を崇拝するだけでなく、故郷にいた数ヶ月の間、蒋介石は大小様々な重要な寺院を10回以上参拝し、その中でも有名なのが武山廟と妙高台です。

武山廟は武山の麓にあり、元々は溪口鎮の蒋、張、単、宋、任の五つの氏族が共同で使用していた寺廟で、冠婚葬祭に使われていました。

蒋介石とこの寺廟との縁は浅くありません。

清朝末期、蒋介石の父親である蒋粛庵は武山廟の「廟首」になりました。

民国初期になると、武山廟で「武山小学校」が開校され、蒋介石の息子である蒋経国がここで初等教育を受けました。

武山廟の菩薩は蒋氏が彫刻し、開眼したため、蒋家の人々は廟の菩薩を非常に信頼していました。

30年代、蒋経国がソ連に留学した際、蒋介石の妻で蒋経国の母親である毛福梅は、息子を恋しく思い、武山廟でおみくじを引いたところ、「秀才出門、状元回家」と書かれていました。

その後まもなく、蒋介石の兄である蒋介卿が病に倒れ、蒋経国は無事に帰国しました。

毛福梅は人に解釈してもらったところ、蒋介卿は清末の秀才であり、このおみくじは蒋介卿が病死して運び出され、海外で学んだ「状元」である蒋経国が故郷に凱旋することを指していると分かりました。

それ以来、毛福梅は人に会うたびに武山廟の菩薩は霊験あらたかだと話すようになり、蒋介石は武山廟のおみくじを非常に大切にするようになりました。

西安事件の後、蒋介石は故郷に戻って休養し、武山廟の前を通りかかった際、菩薩を拝むことにしました。

参拝後、寺廟を離れると、蒋介石はふと心が軽くなったような気がしました。まるで心にまとわりついていた暗雲が晴れたかのようでした。

彼は自分の誠意が天に届き、菩薩が庇護してくれたからこそ、命拾いしたのだと信じ、それ以来、武山廟を精神的な拠り所としていました。

決めかねることがあると、自ら武山廟におみくじを引くことができなくても、必ず人に頼んで仏前で線香を焚き、祈願しました。

妙高台は、蒋介石が1927年に初めて下野して帰郷した際に建設した別荘です。

彼は雪竇山の絶景の地を選び、元々あった栖雲庵を取り壊し、そこに中国と西洋の様式を融合させた2階建ての別荘を建て、「妙高台」と名付けました。

元の栖雲庵にあった石奇禅師の舎利塔は、そのまま別荘の中庭に残され、高僧の庇護を得られるようにと願いました。

三、 神仏に祈る

初めて下野した際、蒋介石は雪竇寺の住職である朗清に占ってもらったところ、「飛龍在淵、騰骧在望」という結果が出ました。

この卦は、一時的に潜伏するものの、東山再起は近いという意味で、当時の蒋介石の境遇にぴったり合っており、彼が災いを転じて福となすことを予示する大吉の兆しでした。

案の定、下野後、蒋介石は日本に行き、首相の田中義一、陸軍大臣の向川義則らと密談し、彼らの支持と援助を得ました。

その後、日本に滞在していた貴婦人の倪桂珍と会い、彼女の娘である宋美齢と結婚し、まさに一石二鳥でした。

国内では、汪兆銘らが局面を掌握できず、やむを得ず蒋介石に出馬を要請するしかありませんでした。1年も経たないうちに、蒋介石は復帰を発表し、華々しく帰還し、権力を掌握しました。

しかし、残念ながら、蒋介石が今回帰郷して各地で神仏に祈ったにもかかわらず、神は彼を見放してしまったようです。溪口に戻った蒋介石は数日間精進料理を食べ、再び武山廟でおみくじを引きました。

彼は恭しく線香を灯し、身をかがめて参拝し、立て続けに3本のおみくじを引きました。

おみくじの内容を見て、蒋介石は思わず冷や汗をかき、顔色を失いました。なんと、3本とも大凶だったのです!

3本のおみくじにはそれぞれ「大意失荊州、関公走麦城」、「困居長坂坡、失陥落鳳坡」、「劉先主遺詔托孤、降孫皓三分帰一」と書かれており、まさに蒋介石の苦境と一致していました。

同行していた警護兵がこれを見て、「先生、お気になさらないでください。おみくじは必ずしも信憑性があるとは限りません」と慰めると、蒋介石はすでに覚悟を決めており、「ふざけるな、武山廟の菩薩は霊験あらたかなのだ!」と叱責しました。

今回の占いは、蒋介石の心に暗い影を落とし、その後の決断にも影響を与えたと言えるでしょう。

実は、今回下野した際、蒋介石はまだ復帰するつもりで、以前の2回のように、災いを転じて福となせると考えていました。

そのため、引退文告では、「故あって職務を遂行できない」ことを理由に、「まず身を引退させる」と決定しました。引退と辞職は見た目には大きな違いはありませんが、実際には異なります。

蒋介石がこのようにしたのは、一時的に引退した後、憲法に基づいて大統領に復帰できるようにするためでした。つまり、この時、彼はまだ一縷の望みを抱いていたのです。

引退を発表する前に、蒋介石は一連の人事配置を行い、自分の腹心を様々な要職に任命しました。

例えば、長年の腹心である陳誠を台湾省主席に任命し、張群と朱紹良という初期の日本の留学生を重慶と福州綏靖公署主任に任命し、湯恩伯を京滬杭警備総司令などに任命しました。

同時に、国家備蓄を上海の中央銀行の金庫から廈門、広州など比較的安全な南方都市に移転することを加速させました。

1948年12月から1949年5月にかけて、上海から移転された国庫資産の総額は5億ドルに達しました。

引退して溪口の故郷に戻った後も、蒋介石は党政に干渉し、客を迎え、わずか3ヶ月の間に、数百人の国民党の軍政要人を接見し、様々な重要な議題について個人的な指示や意見を表明し続けました。

同時に、彼は溪口にいくつかの無線局を建設し、「国民党総裁」の名において、引き続き国統区内の党政軍務を遠隔操作しました。

この時の蒋介石は、まだ東山再起の夢を見ていたのかもしれません。しかし、理想は美しくても、現実は残酷でした。

蒋介石が溪口に滞在していた数ヶ月の間、交渉がうまくいかない、戦場で敗北したという知らせが絶え間なく届きました。

敗戦は山が崩れるように起こり、おみくじの結果は蒋介石に手痛い一撃を与えました。ふさぎ込んだ蒋介石はその日のうちに船で溪口を離れました。

2月22日、蒋介石は再び葛竹を訪れ、祖母の一族の親戚たちと別れを告げました。

最後に祖父母の墓参りを終えた後、蒋介石は二人の叔父に、もし敗戦したら、五台山で修行したいと告げました。

修行というのは、単なる口先だけの言葉だったのかもしれません。なぜなら、この時、蒋介石はすでに台湾に退避する準備を整えていたからです。

しかし、彼のこの言葉から、彼はすでに戦局に何の希望も抱いておらず、意気消沈していることが窺えます。

この時、国共交渉はまだ続いていました。

張治中が溪口を訪れ、蒋介石の意見を求めましたが、蒋介石は以前のように希望を抱いている様子はなく、意気消沈し、別れの悲しみに浸っていました。

蒋経国はこの日の日記に、「父は彼に非常に冷淡な態度をとり、溪口の風景を案内するだけだった」と記しています。

蒋介石の目には、失敗はすでに決定的であり、もはや変えることはできないものと映っていたのです。

神仏の言葉が本当に信憑性があるのかどうかは未知数ですが、蒋介石のような迷信深い人間にとって、あの大凶のおみくじ3本が、ラクダの背骨を折る最後の一本の藁となったのかもしれません。

1949年12月12日、蒋介石は狼狽して台湾に逃れ、中国大陸における数十年にわたる彼の腐敗した統治もろとも崩壊しました。

新中国の成立とともに、帝国主義の侵略と軍閥の混戦に苦しめられてきた中国人民は、ついに春を迎えました。