大正天皇は先天的に脳の病を患い、知能に問題があったとされています。国会開会式で演説原稿を丸めて望遠鏡のように覗き込むなど、奇妙な行動が度々見られました。
日本の重臣たちは、天皇の奇行が国の威信を損なうと考え、当時皇太子だった裕仁親王に摂政を願い出ました。大正天皇はこれを承諾し、静かに暮らすことを選びました。
しかし、大正天皇にはもう一つ問題がありました。それは、皇太子裕仁よりも、弟の雍仁親王を可愛がっていたことです。ある日、大正天皇は雍仁親王に「将来は雍仁を天皇にしたい」と漏らしてしまいます。
この発言は、裕仁親王にとって大きな脅威となりました。裕仁親王は、永田鉄山に密命を下します。
大正天皇と二人の息子
1926年12月25日、深夜。永田鉄山は大正天皇の寝室に忍び込みました。寝室には誰もいません。大正天皇は風邪薬を飲んで眠っていました。
永田鉄山は、大正天皇に薬を注射しました。大正天皇は苦しみましたが、そのまま息を引き取りました。
翌日、政府は大正天皇が心臓病で崩御したと発表しました。
老鬼子裕仁
裕仁親王(後の昭和天皇)は、即位後も弟の雍仁親王を警戒し続けました。雍仁親王の妻が流産したり、海外での任務を命じたり、中国への派遣を画策したりしました。
しかし、雍仁親王は戦争に反対し、平和主義者となりました。戦後、裕仁天皇はアメリカが雍仁親王を天皇にすることを恐れましたが、雍仁親王は戦後間もなく亡くなりました。