衝撃!チベットで発見された石碑が語る真実…あの英雄は実在した!?歴史ロマン探訪!

「両袖一揮、清風明月、仰天一笑、快意人生、歩履一双、山河踏遍、心有明珠、山河明媚。」 ——林清玄

引言

中国は五千年の歴史を持つと言われますが、海外の研究者の中には様々な理由からその歴史を疑う者がいます。まるで、中国の歴史を少しでも短くできるかのように。しかし、真実はそう簡単に覆せるものではありません。疑問があれば、真実を追求する飽くなき努力があり、事実を掘り起こし、歴史を正当化するのです。

時として、文化遺産が残るかどうかは、本当に紙一重です。1990年、チベットで文化遺産調査隊が調査を行っていました。その頃、チベットの小さな地域で用水路を建設する計画が進められていました。チベットは地形が複雑なため、何かを建設するには、何かが破壊されるのは避けられません。案の定、水路の建設を妨げる岩がありました。もしその岩が建設チームによって爆破されていたら、貴重な文化遺産が失われ、英雄の存在を証明する証拠も失われていたでしょう。

しかし、ある県長が異変に気づき、急いで調査隊に連絡しました。調査隊のメンバーは、漢字が刻まれた神聖な石があると聞き、ただ事ではないとすぐに駆けつけました。

村長は調査隊を漢字が刻まれた岩の場所へ案内しました。その岩はそれほど大きくなく、長さも幅も1メートルに満たないものでした。長年の風雨にさらされ、表面はすでに一部が崩れ、文字もかなりぼやけていました。調査隊員が1時間以上かけて清掃した結果、縦書きの漢字が浮かび上がってきました。「大唐天竺使出銘」の文字がはっきりと現れたのです。その後、考古学者の研究と考察を経て、この石碑は「大唐天竺使出銘」と名付けられました。

この石碑の発見は、学者たちを驚かせました。有名な唐蕃会盟碑よりも160年以上も古いものだったのです。また、石碑が発見された場所が吉隆地区であったこと、そして石碑には西暦658年に王玄策が天竺へ派遣された出来事が刻まれていたことから、吉隆古道の歴史は大きく遡ることになりました。唐の時代にはすでに吉隆古道が存在していたことが明らかになったのです。王玄策がここを通って天竺へ向かったことから、吉隆が唐、吐蕃、泥婆羅、天竺を結ぶ主要な交通路であったことが証明されました。そして王玄策は、古道を通って南アジアへ入った数少ない唐代の中国人となりました。これまで疑われていた王玄策の存在と物語が、ついに証明されたのです。王玄策は実在し、大唐から天竺へ派遣され、天竺を打ち破った英雄は、歴史の中に確かに存在したのです。

なぜそのような結論に至ったのでしょうか?石碑には、次のような内容が刻まれているとされています。当時、国力が強盛だった唐は、王玄策を使者として天竺へ派遣しました。王玄策の道のりの苦労と辺境の美しい景色を称え、ここに銘文を刻み、石碑を立て、彼らの功績を記憶にとどめたのです。

もちろん、多くの人が「王玄策とは誰なのか?」と疑問に思うでしょう。彼は唐の官僚であり、外交官であり、何度もインド(天竺)へ派遣されました。そして、インドを席巻したのです。王玄策の物語は、石碑には完全には記されていません。当時、王玄策は天竺へ派遣されましたが、天竺では老王が亡くなり、阿羅那順という大臣が王位を狙っていました。しかし、直接簒奪すれば民衆の不満を招くため、大臣は使者である王玄策に目をつけました。国力が強盛な大唐の官僚と戦い、打ち破ることができれば、民衆の支持を得られると考えたのです。そこで、王玄策に先制攻撃を仕掛け、民心と政権を固めようとしました。当時の王玄策は、使節として派遣されただけで、兵力はほとんどありませんでした。阿羅那順の猛攻を受け、王玄策は吐蕃へ逃れるしかありませんでした。

当時、吐蕃は大唐と友好関係にありました。王玄策はすぐに軍を再編成しました。大唐が天竺ごときに敗れるわけにはいきません。王玄策は軍を率いて天竺へ戻り、彼らを打ち破りました。

しかし、この出来事は正史には記録されていません。おそらく、唐王朝は天竺との関係を悪化させたくなかったのでしょう。そのため、王玄策にわずかな褒賞を与えただけで、この件を終わらせました。

ご存知のように、唐は偉大な時代であり、その繁栄と寛容さは今でも称えられています。人々は唐への想像を絶やしません。クリエイターたちは、唐を題材にした作品を 끊임없이作り続けています。2017年には、陳凱歌監督の映画『妖猫伝』が公開され、全国的に唐ブームが巻き起こりました。映画では、楊貴妃が馬嵬坡で処刑され、生き埋めにされました。しかし、映画はあくまで映画であり、実際の歴史とはかけ離れていることがよくあります。今日に至るまで、楊貴妃がどのように亡くなったのか、馬嵬坡で処刑されたのか、乱戦の中で亡くなったのか、それとも寺で亡くなったのか、私たちは知りません。具体的な文献や史実の発掘がないため、大唐天竺使出銘が発見されるまで答えられなかった問題と同じように、これらの疑問に答えることはできません。歴史は私たちが捏造するものではなく、何度も調査研究を重ねることで、歴史の真実が徐々に水面に浮かび上がってくるのです。

以前は、王玄策の存在を証明する強力な証拠がなかったため、王玄策はほとんどの人、さらには専門家の目にも、単なる物語に過ぎませんでした。しかし、大唐天竺使出銘の出現により、彼がかつて繁栄した大唐に存在したことが証明され、勇敢な大唐の将軍が、ついに正当な評価を得たのです。

人々は歴史を誤って解釈するかもしれませんが、歴史は必ず自らのために名誉を回復します。良いことも悪いことも、歴史の発見の中で一つ一つ解き明かされるでしょう。

参考資料:《西藏商报》、《历史序言》