😱歎史の闇に迫る匵献忠は四川を本圓に虐殺したのか衝撃の蚌拠ず意倖な真盞に迫る【歎史ミステリヌ】

匠献忠屠蜀に぀いお曞かれた歎史資料は、珟圚たでに450皮類も発芋されおいたす。有名なものには、『匠献忠陷庐州纪』、『蜀難叙略』、『蜀譊録』、『蜀砎镜』、『荒乊』、『蜀亀鑑』、『蜀碧』などがあり、枚挙にいずたがありたせん。「匠献忠による四川虐殺」は、すでに定説ずなっおいたす。

魯迅も倚くの䜜品で匠献忠に蚀及し、人々を無差別に殺害し、殺人を趣味ずしおいるず非難しおいたす。

魯迅は『䞔介亭杂文.病后杂谈』の䞭で、「最初に手にしたのは『蜀碧』だ。これは蜀賓が成郜から持っおきおくれたもので、他に『蜀亀鑑』もある。どちらも匠献忠による四川の灜厄に぀いお曞かれた本だ。四川人だけでなく、すべおの䞭國人が目を通すべき著䜜だが、残念ながら印刷が悪く、誀字が倚い。䞀通り読んでみるず、巻䞉にこのような蚘述があった。『たた、剥皮刑は、頭から尻たで䞀筋に裂き、前に広げるず、たるで鳥が翌を広げたようになる。䞀日以䞊かけお絶呜する。即死した堎合は、刑執行人が死刑ずなる。』」ず悲痛な思いを述べおいたす。

しかし、近幎、匠献忠を擁護する人々が珟れ始めたした。「匠献忠による四川虐殺」は、満枅が匠献忠を䞭傷するために䜜り䞊げた「傑䜜」だず蚀うのです。その理由は、䞻に以䞋の通りです。

䞀、匠献忠が四川に入ったのは、四川を拠点ずしお、攻めおは挢䞭を攻略し、西北を平定し、長江を䞋っお江南を平定するためだった。退いおは䞀方を割拠し、倩䞋に事あれば持倫の利を埗、倩䞋に事なければ蜀を挙げお降䌏し、王䟯に封じられるこずもできた。したがっお、匠献忠が四川を虐殺する理由はない。

二、匠献忠は1646幎に死去したが、満枅が重慶を陥萜させたのは1659幎だった。぀たり、四川の人々は枅軍ず13幎間も死闘を繰り広げたのだ。もし本圓に匠献忠による四川虐殺事件があったのなら、四川はすでに人口がほが絶滅しおいたはずだ。抵抗する力など残っおいないはずだ。しかも、枅軍は匠献忠を殺害するこずで、倧虐殺から生き残った人々を救ったのだ。それなのに、なぜ人々は歓喜しお枅軍を迎え入れず、枅軍ず䞍屈の闘いを繰り広げたのか

䞉、匠廷玉は䞉朝の元老であり、官䜍は保和殿倧孊士兌吏郚尚曞、軍機倧臣にたで䞊り詰めた。圭遵泗は也隆二幎の進士であり、官䜍は埡林院線修だった。二人ずも枅朝の埡甚文人に属しおおり、圌らが線纂した『明史』や『蜀碧』における匠献忠による四川虐殺の信憑性は疑わしい。さらに、『明史』の『匠献忠䌝』にある「男女合わせお六億六千䞇人䜙りを殺害した」ずいう蚘述を取り䞊げ、これらの埡甚文人は匠献忠を䞭傷するために、狂ったように吠えたくっおいるず䞻匵する。

こうしおみるず、「匠献忠による四川虐殺」は疑わしいものに思えおきたす。

しかし、以䞊の3぀の点は簡単に反駁できたす。

第䞀の点に぀いお、魯迅はすでに『晚凉挫笔』の䞭で説明しおいたす。「圌匠献忠は最初から人を殺しおいたわけではない。皇垝になりたいず思っおいたのだ。しかし、李自成が北京に入り、続いお枅軍が関所を越えおきたこずを知り、自分には没萜の道しかないず悟った。そこで殺し始めたのだ。圌は倩䞋に自分のものはないず感じ、他人のものを砎壊しおいるのだ。それは、滅亡寞前の颚雅な皇垝が、死ぬ前に祖先や自分が収集した曞籍や骚董品などを焌き払う心理ず党く同じだ。圌にはただ兵士がいたが、骚董品などはなかった。だから殺し、殺し、殺し続けたのだ。しかし、圌は兵士を維持しなければならない。それはただ殺しを維持するためでしかない。圌は平民を殺し尜くすず、より信頌できる郚䞋を兵士の䞭に送り蟌み、密かに䞍満を聞き出した。䞍満を挏らす者がいれば、すぐに捕らえお䞀族皆殺しにした圌の兵士には家族がいたようだ。おそらく略奪しおきた女性だろう。殺しで兵士を治め、兵士を䜿っお殺しを行ったのだ。圌は滅びるが、共に滅亡するずいう末路を蟿ろうずしたのだ。」

第二の点に぀いお、魯迅の『灯䞋挫笔』にも間接的な説明がありたす。「䞭囜の民は䞭立であり、戊時䞭は自分がどちら偎に぀くべきかさえ分かっおいない。しかし、どちら偎にも属しおいるのだ。盗賊が来れば、圹人に属し、圓然殺され、略奪される。官兵が来れば、味方になるはずだが、やはり殺され、略奪される。たるで盗賊に属しおいるかのようだ。この時、民は自分たちを民ずしお扱っおくれる、぀たり牛銬ずしお扱っおくれる䞀定の䞻人を望むのだ。自分たちで草を食むので、どのように走ればいいのか決めおほしいず願うのだ。もし本圓に誰かが圌らに代わっお決めおくれるなら、奎隷芏則を決めおくれるなら、圓然『皇恩浩蕩』ずなるだろう。残念ながら、䞀時的に誰も決めおくれないこずが倚い。倧きな䟋を挙げれば、五胡十六囜時代、黄巣の乱の時代、五代時代、宋末元末時代など、い぀ものように劎圹や玍皎に加え、予期せぬ灜難にも芋舞われた。匠献忠の気質はさらに奇劙で、劎圹や玍皎をしない者は殺し、劎圹や玍皎をする者も殺し、敵察する者は殺し、降䌏する者も殺した。『時日曷喪、予及汝偕亡』」

぀たり、「匠献忠による四川虐殺」は事実だが、圌が四川の人々をすべお殺し尜くしたずは蚀っおいない。実際、匠献忠が四川に入ったのは3幎間で、人間性を倱い、倧虐殺を行ったのは最埌の数ヶ月間だった。この短い期間に、たずえ数十䞇の倧軍がいたずしおも、刀や槍などの冷兵噚だけで、四川党土の数千䞇人の人々を殺し尜くすこずは䞍可胜だ。たしおや、四川は広倧な土地であり、殺人はさおおき、匠献忠の兵士が四川の隅々たで歩き回るだけでも、数ヶ月では䞍可胜だ。しかし、匠献忠が四川の人々を殺し尜くさなかったずしおも、圌の眪は蚱されるべきではない。たた、四川の人々が匠献忠を憎んでいるからずいっお、枅軍を歓迎しなければならないずか、枅軍に抵抗するこずが匠献忠を敬愛するこずの衚れだずは蚀えない。この二぀には必然的な関係はない。四川の人々は匠献忠を憎み、枅軍も歓迎しなかったず蚀えるだけだ。

重芁なのは第䞉の点です。前述したように、匠献忠による四川虐殺に関する歎史資料は、珟圚たでに450皮類も発芋されおおり、そのすべおが満枅の埡甚文人の䜜品ではありたせん。その䞭には、南明時代の明朝偎の圓事者による著䜜が数十郚含たれおいたす。反枅孊者の王船山の『氞历实圕』、圭孙莻の『平寇志』、呉梅村の『绥寇纪略』、談遷の『囜抷』などです。

その他にも、明朝兵郚尚乊楊嗣昌の息子が著した『孀儿吁倩圕』、広安の生員である欧陜盎が著した『欧阳遗乊』別名『蜀乱』、南充の韓囜盞が著した『流犻䌠』、匀江の銮倢韍が著した『劫后圕』、倧竹双桂堂の砎山和尚が撰した『砎山集』、簡州の傅迪吉が撰した『五马先生纪幎』、梅亭叶梊珠滚江が纂茯した『续绥寇纪略』、四川のある道士が著した『匠献忠屠蜀记』、圓時の四川の地方官僚が著した『雅州受隟记』及び『汉嘉受害记』などがありたす。

もし、これらの著䜜が満枅政府に奉仕しおいなくおも、前明の滅亡を悌み、匠献忠を痛烈に非難し、醜化しおいるず考える人がいるなら。

これらの䜜品を避け、より確かな蚌拠に基づいお話を進めたしょう。

その確かな蚌拠ずは、『纪事略』、『倧西通纪』、『滟滪囊』、『圣教入川记』などの曞籍を指したす。

『纪事略』の䜜者は䞍明ですが、文䞭の蚘述によるず、䜜者は倧西囜に勀務したこずがあり、自身の経隓に基づいお蚘述しおいるため、信憑性が高いず考えられたす。匠献忠が四川の人々を虐殺する呜什を公垃したこずが蚘録されおいたす。

『倧西通纪』の䜜者も䞍明ですが、内容から刀断するず、匠献忠の郚䞋が死を逃れお䞖を捚おた埌に曞いた私史であるず考えられたす。元々は『劫后䌠信』ずいう2巻の本で、蚘録は簡略ですが、甲申から䞙戌たでの3幎間の成郜の出来事が比范的信頌できる圢で蚘録されおいたす。

『滟滪囊』は通江の李銥栄錊山が撰したもので、内容は䞻に『山城纪事』、『荒乊』、『蜀乱』、『滇蜀纪闻』などの曞籍から収録されおいたす。しかし、他の曞籍にはない資料も倚く含たれおおり、これらの資料は、倚くの堎合、出所を明瀺せずに盎接叙述されおいたすが、「蜶其名」ずいう3文字が蚘されおいたす。専門家の考蚌によるず、この「蜶其名」ずは、匠献忠の功臣であるか、あるいは『倧西通纪』の䜜者である可胜性があり、さらには孫可望たたは李定囜である可胜性も極めお高いず考えられおいたす。その理由は、他の曞籍が孫可望や李定囜の事跡を蚘録する際、『滟滪囊』の「蜶其名」の事跡ず同じ内容であるからです。

『圣教入川记』の䜜者は、匠献忠によっお「倩孊囜垫」に封じられた西掋の宣教垫である利思むタリア人ず安文思ポルトガル人です。この二人は、匠献忠による四川倧虐殺の目撃者であるため、圌らが著した『圣教入川记』は最も暩嚁があるず蚀えるでしょう。囜内では長らくこの曞籍の存圚が知られおいたせんでしたが、1917幎に䞊海の教䌚のフランス人宣教垫である叀掛東Gourdonによっお䞭囜語に翻蚳されたした。その䞭で最も䟡倀があるのは、利思ず安文思の二人の宣教垫の口述です。圌らは匠献忠が皇垝を名乗った幎に、ある人物の掚薊で匠献忠によっお倩孊囜垫に封じられ、匠献忠が枅軍に射殺されるたで圌のそばにいたした。『圣教入川记』には、甲申から䞙戌たでの3幎間の成郜の出来事が比范的信頌できる圢で蚘録されおいたす。利思ず安文思の二人は、宣教垫の芖点から匠献忠を芋おおり、圌らの蚘録によるず、1646幎以前の匠献忠は瀌儀正しかったのですが、1646幎以降は暎力的で無秩序な狂人になったずされおいたす。二人の宣教垫は、「粟神病を患っおおり、生呜を傷぀けるこずは、人䞻たるに倀しない」ず匠献忠を評䟡し、匠献忠が倧芏暡な殺戮を行ったこずを䜕床も蚘録しおいたす。その䞭には、「四川人を深く憎んでいる」、「四川人を倧虐殺しおいる」などの蚀葉が頻繁に登堎したす。

最も恐ろしいのは、『圣教入川记』に蚘録されおいる、匠献忠が出川する際、人銬の出発が遅れるこずを深く懞念したため、各営に女性が倚く、進行を劚げおいるず考えたこずです。匠献忠には正后4人の他に、劃嬪が300人、文歊官僚や各営の将官にも倚くの女性がおり、兵士にも倚くの女性がいたした。これらの女性はすべお略奪によっお連れおこられたものです。匠献忠は女性が倚いず、迅速な移動ができないず考えたした。そこで、文歊癟官ず各営の将校を集めお協議し、意芋を衚明させ、翌日、女性たちを倧営の倖に連れ出し、䞀埋に殺害するよう呜じたした。匠献忠は后劃20人を残しお雑甚をさせたしたが、残りの280人はすべお殺害したした。各営の女性たちは䞀箇所に集められ、号什䞀䞋、乱砍乱殺され、悲鳎ず泣き叫ぶ声が倩地を揺るがしたした。女性たちの死䜓が山のように積み䞊げられ、血が川のように流れたした。匠献忠の残虐さは、人々に衝撃を䞎えたした。この日に殺害された女性の数は、40䞇人以䞊に達するず蚀われおいたす。匠献忠は女性を殺害した埌、狂喜乱舞し、癟官に祝意を述べ、「女性の束瞛から解攟され、身にわずらわしいものがなくなり、前進を劚げるものがなくなったので、必ず倩䞋を埗るこずができる」ず述べたした。翌日、成郜城䞋から出発したした。しかし、四川の道は険しく、移動は容易ではありたせんでした。困難を感じるたびに、狂ったように怒り狂い、案内官を無数に殺害したため、誰も案内する者がいなくなりたした。匠献忠は自ら道案内をし、たっすぐ進んでいきたした。山を越え、谷を越え、岐路が倚くありたした。道が行き詰たるたびに、人銬は疲れ果お、非垞に苊劎し、怒りず恚みを募らせ、人に䌚えば殺し、家を芋぀ければ焌き払い、憀りを晎らしたした。毎日殺される者の数は、100人から200人に達するず蚀われおいたす。

『圣教入川记』に蚘録されおいるこずは、倚くの堎所で裏付けられおいたす。

䟋えば、匠献忠の死埌、圌の事業を継承した息子はいたせん。これは、『圣教入川记』に蚘録されおいる匠献忠が劻ず子を殺害したずいう話が真実であるこずを瀺しおいたす。

たた、1647幎に匠献忠が西充県境で矢に圓たっお死亡した埌、孫可望、李定囜、劉文秀、艟胜奇らは䌚議を開き、「今埌は戊闘以倖では人を殺しおはならない」ず明確に呜什し、匠献忠の「皇后」ず匠献忠から厚い信頌を埗おいた巊䞞盞の汪兆霢を凊刑したした。これは、匠献忠による無蟜の民の虐殺ずいう狂気の行動を改め、人々の心を安定させるためのものでした。

鄭倩挺らが線纂した『明末农民起义史料』には、『南明兵郚尚乊李也執答孙可望乊』が収録されおいたす。この曞の䞭で、李也執は匠献忠による四川虐殺を痛烈に非難しおいたすが、孫可望や李定囜らは䞀蚀も匁解しおいたせん。これは、李也執が述べたこずを黙認しおいるこずを瀺しおいたす。

考えおみおください。孫可望や李定囜らでさえ、匠献忠を匁解するこずができなかった事実を、珟代人が匁解するのは滑皜ではありたせんか

したがっお、匠献忠による四川虐殺は事実であり、もはや反論の䜙地はありたせん。