三国志好き必見!演義とは違う、リアルな武烈皇后の姿に迫ります!
『三国演義』では、孫堅の妻であり、劉備の妻・孫夫人の母である呉国太は、慈悲深く、少しおせっかいなイメージですよね。でも、それはあくまで小説の中の話。実際の呉国太、つまり武烈皇后はどんな人物だったのでしょうか?
一、電撃結婚!?
武烈皇后は、東呉の基礎を築いた孫堅の妻であり、孫策、孫権の母です。彼女は、もともと呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州)出身でしたが、後に銭唐(現在の浙江省杭州)に移り住みました。父親は丹楊(現在の安徽省宣城)の太守を務めたこともある、実はエリート家系出身なんです!
しかし、幼い頃に両親を亡くし、弟の呉景ら親戚と共に銭唐で暮らしていました。そこで彼女が出会ったのが、孫堅です。
孫堅は呉郡富春(現在の浙江省杭州)出身。貧しい農民の出身だったと言われています。武勇に優れていましたが、どこか軽薄で狡猾な印象を持たれていたようです。
孫堅は、呉氏の美貌と才能を聞きつけ、結婚を申し込みます。しかし、親戚たちは、孫堅の武骨な性格を嫌い、結婚に反対。孫堅は、その態度に腹を立て、憤慨します。
そんな中、呉氏が立ち上がり、親戚たちに言います。「皆さんが私を大切に思ってくれるのは嬉しいけど、皆さんの心配のせいで家族全体が不幸になるのは避けたい。孫堅との結婚は、運命だと受け入れるわ。もし彼が私を大切にしてくれなくても、誰のせいにもしない。」そして、彼女は孫堅と結婚することを決意します。
呉夫人は、家族の安全のために、自分の人生を賭けたのです。その決断力は、三国志の中でも特筆すべきものです。
幸いなことに、孫堅は仕事熱心で、呉夫人を大切にしました。彼女は、孫策、孫権、孫翊、孫匡、そして孫夫人(劉備の妻)を次々と産み育てました。
しかし、仕事熱心な夫を持つ妻は、常に大きなプレッシャーにさらされます。
二、流浪の日々
184年、黄巾の乱が勃発。孫堅は、朱儁の部下として戦に出ます。呉夫人と子供たちは、九江寿春(現在の安徽省寿県)に残されました。
孫堅は、黄巾の乱での活躍が認められ、別部司馬に任命されます。
その後も、孫堅は各地を転戦し、呉夫人と子供たちも、彼の転勤に伴い、各地を転々とすることになります。
呉夫人は、息子の孫策と共に、孫策の友人である周瑜の故郷、廬江舒県(現在の安徽省舒城)に移り住みます。
192年、孫堅は劉表との戦いで命を落とします。孫堅の死後、呉夫人は、孫策と共に、広陵江都(現在の江蘇省揚州)に移り住みます。そこで、彼女は、張紘の世話を受けます。
その後、呉夫人は、孫策と共に、各地を転々とします。
最終的に、呉夫人は、故郷である呉県に戻り、そこで晩年を過ごします。
三、賢人を敬い、士を礼遇する
孫策が江東を平定する際、彼は強硬な手段を取りました。呉太夫人は、地元の有力者たちを保護しました。
例えば、烏程(現在の浙江省湖州)の鄒他や銭銅、そして合浦(現在の広西省合浦)の前太守である王晟などは、孫策に反抗しましたが、孫策は彼らを皆殺しにしようとしました。呉太夫人は、孫策に「王晟は、あなたの父と親交があり、彼の家族は皆殺しにされた。彼一人だけ助けてあげてほしい。」と言い、孫策は、その言葉に従い、王晟を許しました。
また、孫策の部下である魏騰は、孫策の怒りを買い、殺されそうになりました。呉太夫人は、孫策に「あなたは、今、江南を平定しようとしているのだから、賢人を敬い、士を礼遇するべきだ。魏功曹は、あなたのために忠告したのだから、殺してはいけない。」と言い、孫策は、その言葉を聞き入れ、魏騰を許しました。
呉太夫人は、孫策の江東平定において、地元の有力者たちとの緩衝材としての役割を果たしました。彼女の存在は、孫策の勢力拡大に大きく貢献したと言えるでしょう。
しかし、孫策は、許貢の家臣に暗殺され、東呉は孫権の時代を迎えます。
四、軍国を助け治める
200年、孫策の死後、19歳の孫権が東呉を継ぎます。
孫権は若かったため、呉太夫人は、彼が東呉をうまく治められるか心配し、張昭や董襲らを呼び寄せ、東呉の将来について相談しました。董襲は、「東呉には、山河の堅固さがあり、孫策は、部下たちに恩恵を与え、孫権は、その遺志を継いでいる。張昭が政治を行い、我々が命を懸けて支えるので、心配することはありません。」と言いました。呉太夫人は、その言葉を聞き、少し安心しました。
呉太夫人は、軍事的な問題にも関与し、孫権を助けました。彼女は、張紘や張昭に何度も手紙を送り、孫権をよく補佐するように頼みました。また、重要な秘密事項や、朝廷からの手紙、そして他国との外交などにも関与し、張昭らと相談しました。
202年、官渡の戦いで袁紹を破った曹操は、孫権に息子を人質として差し出すように要求しました。孫権は、家臣たちと相談しましたが、なかなか結論が出ませんでした。そこで、孫権は、周瑜と共に、呉太夫人の元を訪れ、相談しました。周瑜は、「人質を差し出すべきではありません。」と言い、呉太夫人は、それに賛成しました。周瑜を見た呉太夫人は、彼と同い年の孫策のことを思い出し、孫権に周瑜を兄弟のように大切にするように言いました。
同年、呉太夫人は、病に倒れます。彼女は、張昭を呼び寄せ、自分の死後のことを託しました。呉太夫人の死後、彼女は、孫堅と共に、高陵に埋葬されました。孫権は、皇帝に即位した後、孫堅を武烈皇帝、そして呉太夫人を武烈皇后として追尊しました。
『三国演義』に登場する呉国太は、武烈皇后をモデルにした人物です。しかし、演義の中の呉国太は、慈悲深く、少しおせっかいなイメージですが、実際の武烈皇后は、知略と決断力に優れ、東呉初期の政治において、大きな役割を果たしました。彼女は、三国時代の孝荘文皇后と言っても過言ではありません。
呉烈皇后の弟である呉景は、後に亡くなり、その息子の呉奮は、将軍に任命され、新亭侯に封じられました。呉奮の死後、その息子の呉安が爵位を継ぎましたが、呉安は、南魯党争に巻き込まれ、処刑されました。呉奮の弟である呉祺は、都亭侯に封じられました。呉祺が亡くなると、その息子の呉纂が爵位を継ぎ、呉纂の妻は、大司馬の滕胤の娘でした。後に滕胤は、権力者の孫綝に殺され、呉纂も共に殺されました。
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