#歴史好き必見 #清朝 #ジェルハラン
愛新覚羅ジェルハラン(1599-1655)は、清の太祖ヌルハチの甥で、舒爾哈斉(シュルハチ)の六男。後の清朝を支えた重要な人物の一人です。
幼少期に父が謀反を起こし、ヌルハチに引き取られるという波乱のスタートを切りました。その後、数々の戦で功績を挙げ、その名を轟かせました。
1599年、ジェルハランは遼東で生まれました。
1610年、父の舒爾哈斉は明との関係維持を主張しますが、ヌルハチはこれに反対。兄弟の対立は深まり、舒爾哈斉は謀反を企てたとされ、幽閉され、翌年亡くなります。ジェルハランは当時わずか12歳でした。
その後、ジェルハランは伯父のヌルハチに引き取られ、実の子のように育てられました。
26歳で初めて頭角を現し、数々の戦で武功を重ねます。
当時、コルチン部はヌルハチの勢力を頼り、他の部族からの侵略を防いでいました。しかし、天命10年、チャハル部がコルチン部へ侵攻。コルチン部はヌルハチに救援を求めました。
この時、ヌルハチの皇侄であるジェルハランは26歳。彼は大軍を率いてコルチン部を救援に向かいました。ジェルハラン率いる大軍の到着を聞いたチャハル部は恐れをなし、撤退。これがジェルハランにとって最初の大きな戦功となりました。翌年には、ヌルハチと共に部族征討に参加し、勝利を収めます。しかし、その年、ヌルハチが亡くなります。
皇太極を支持し、人生のピークを迎えます。
1626年、ヌルハチの死後、皇八子の皇太極(ホンタイジ)が後を継ぎます。当時、まだ後金政権であり、清朝は成立していませんでした。
ジェルハランは既に一定の兵力を持ち、兄のアミンから共同で独立しようと誘われます。しかし、ジェルハランは兄の誘いを拒否し、皇太極への忠誠を選びました。
皇太極はジェルハランを非常に重用し、彼を自分の息子以上に信頼しました。
天聡元年(1627年)から5年(1631年)にかけて、ジェルハランは皇太極と共に各地を転戦し、数々の戦功を挙げ、朝廷内で重要な地位を確立しました。
天聡5年、後金は政権の安定を図るため六部を設置。ジェルハランは刑部を主管することになりました。
天聡10年(1636年)、皇太極は皇帝を称し、国号を大清と改め、年号を崇徳としました。ジェルハランは和碩鄭親王(ホショ・ジェンチンワン)に封じられます。
順治帝の時代、ジェルハランは輔政叔王(ふせいしゅくおう)となります。
崇徳8年(1643年)、皇太極は後継者を指名しないまま亡くなります。後継者争いが起こり、ドルゴンと皇長子の豪格(ホーゲ)が対立します。
ジェルハランは、議政王会議でまず豪格を皇帝に推し、次に皇九子の福臨(フリン)を皇太子に立てることを提案。最終的に福臨が皇帝に擁立されることになりました。
福臨が即位し、翌年、年号を順治と改めます。
順治元年(1644年)、ジェルハランはドルゴンと共に輔政叔王に任命されます。ドルゴンが軍事を担当する一方、ジェルハランは政務を担当しました。その後、王公大臣会議が廃止され、全ての朝廷事務は二王によって決定されるようになり、ジェルハランは摂政和碩鄭親王に昇進し、権勢を極めました。
ドルゴンが北京に攻め入った後、ジェルハランは順治帝を伴って北京に入城。順治帝は入関後の最初の皇帝として即位し、ジェルハランは信義輔政叔王に封じられ、多大な恩賞を受けました。
しかし、順治帝の時代、ジェルハランは何度も罰せられ、輔政としての地位は安定しませんでした。
順治5年(1648年)、朝廷の王公大臣から告発され、多羅郡王(ドゥオラ・グンワン)に降格され、罰金5000両を科せられます。
翌年4月、ジェルハランは和碩鄭親王に復位し、年末には定遠大将軍に任命され、湖広へ南明残党の鎮圧に向かいます。
順治7年(1650年)、ジェルハランは凱旋し、朝廷から黄金200両、白銀2万両を賜ります。この年、ドルゴンが亡くなります。
順治9年(1652年)、順治帝はジェルハランを叔和碩鄭親王に加封し、朝廷での地位は非常に高いものでした。
順治12年(1655年)、ジェルハランが病に倒れると、順治帝は見舞いに訪れました。そして、ジェルハランはこの年に亡くなり、順治帝は7日間喪に服し、葬儀のために1万両の白銀を与えました。
康熙10年(1671年)、献の諡号が追贈され、後世では鄭献親王と呼ばれます。
乾隆19年(1754年)、ジェルハランの名前は盛京の賢王祠に祀られました。さらに、太廟に配享されるという特別な待遇を受けました。