【衝撃】「死」の文字を背負い戦場へ…伝説の抗日英雄、衝撃の結末!生還後の人生に涙…

1939年、四川省安県。若者たちによる義勇隊が祖国のために立ち上がり、抗日戦線へ。その出発前、王建堂という青年は、父・王者誠から小包を受け取ります。中には大きな白い布で作られた旗。まず目に飛び込んできたのは、少し歪んだ「死」の文字。しかし、そこには強い意志が込められていました。出征を前に「死」を語ることは縁起が悪いとされる中、父は「死」の文字の横にこう書き添えたのです。

「私はお前が私のそばで孝行することを望まない。ただ、民族のために忠義を尽くすことを願う。」そして右側には:

「国難が迫り、日本軍の侵略が激化する中、国家の興亡は、国民一人ひとりの責任である。本来なら私が兵役につくべきだが、年齢が過ぎている。幸いにも息子がいるので、自ら志願することを決意した。旗を授ける。常に身につけ、傷を負えば血を拭い、死後は身を包め。勇敢に前進し、本分を忘れるな。」この旗の話は地元で大きな話題となり、多くの人々が涙を流しました。

当時、日本軍の鉄蹄が中国を侵略し、戦局は激化の一途をたどっていました。部隊は次々と敗退し、王建堂をはじめとする若者たちは、ペンを捨てて国に報いる時が来たと感じたのです。彼は町中を駆け回り、100人以上の仲間を集め、戦場への志願を訴え、その結果、今回の出征へと繋がりました。

しかし、「死」の旗を背負って戦場へ赴いた抗日英雄は、生きて帰還できたのでしょうか?その後、彼はどうなったのでしょうか?王建堂とその仲間たちは入隊後、すぐに小隊に編入され、一定期間の軍事訓練を受けた後、1940年に戦場へ派遣されました。王建堂は、夜の闇に乗じて湖南省茶陵県の県庁所在地に潜入し、県庁所在地を守備する日本軍の中隊を奇襲するよう命じられました。その後、日本軍は敗北を甘んじず、援軍を派遣して奪還を試みましたが、一晩の激戦の末、日本軍は多数の死体を残して狼狽して撤退し、我軍の負傷者はわずか2名でした。

この活躍により、王建堂は機知に富み、勇敢で、指揮能力に長けていると評価され、上官部から甲級勲章を授与されました。これは王建堂にとって非常に大きな名誉となり、彼は連副に昇進し、100人以上の兵士の兵站を管理することになりました。ある時、給料を支払う際、欠陥のある銀貨が見つかり、支払われずに残ったため、王建堂はそれを常に身につけていました。

再び戦闘が始まり、王建堂は兵士を率いて敵陣に突撃しました。その時、彼は左腹部に激痛を感じ、銃弾を受けたことに気づきました。王建堂はなんとか数歩前進しましたが、その場に座り込んでしまいました。

王建堂が下を向くと、綿の服は銃弾で貫通され、硬貨が肉に食い込み、周囲には血痕がありました。それはまさに、あの欠陥のある銀貨だったのです!大きな衝撃を受けたため、その形は歪んでいました。もしあの銀貨がなければ、王建堂は故郷に帰ることができなかったかもしれません。

その後、王建堂は洞庭湖での阻止戦や馬鞍山作戦にも参加しましたが、幸いにも再び負傷することはありませんでした。そして彼は、無事に終戦を迎えることができたのです。

しかし、王建堂の晩年は決して恵まれたものではありませんでした。彼の過去の身分を理由に、多くの人々が彼との関係を断ち、仕事を見つけるのも困難でした。状況が好転したのは1980年代以降のことでした。また、王建堂はかつて結婚していましたが、彼が出征した後、妻は消息を絶ってしまいました。この民族の英雄は、1992年に孤独のうちにこの世を去りました。これらの資料は、王建堂の甥である王烈軍氏から提供されたものであり、彼の人生に深い哀悼の意を表します。