抗日戦争時代、2000の兵を率いて数々の日本兵を倒し、「神業砲手」とまで呼ばれた英雄がいた。後に新四軍に投じ、建国後は開国大校となる。彼の名は胥金城。その波乱万丈な人生とは?
1908年山東省陽谷県生まれの胥金城は、軍閥部隊に身を置いていたが、内戦に嫌気がさし故郷に隠遁。1937年の盧溝橋事件後、日本軍の侵攻と民衆の苦難を目の当たりにし、張星柄と共に部隊を組織、その数は一時1万人に迫った。部隊は後に国民党軍に編入され、江蘇省保安第三旅となる。張星柄が旅団長、胥金城が副旅団長に就任。しかし、国民党の逃亡兵や匪賊、地元の住民など、寄せ集めの部隊は「野三旅」と呼ばれた。
興味深いことに、野三旅には2つの司令部が存在した。1つは張星柄率いる興化杭家堡司令部、もう1つは胥金城率いる鹿汪周家垛司令部だ。これは、張星柄と胥金城という2人の指揮官の間に埋めがたい溝があったためだ。当時、張星柄は3000人近い兵力を掌握し、胥金城は2000の重兵を握り、互いに譲らなかった。張星柄は新四軍部隊に敵対的な態度を取り続け、しばしば衝突を起こしたが、胥金城は比較的「親共」的で、地下党員を通じて新四軍を援助し、親密な関係を築いていた。これが後に新四軍に投じるための条件となった。
胥金城は非常に優れた戦将であり、大砲に並々ならぬ情熱を注いでいた。ある時、彼は日本軍の司令部に潜入し、日本軍の大砲を「見学」した。1942年のある日、胥金城は料理人に扮し、コックについて日本軍の兵営に潜入。庭に着くと、2門の大砲が置かれているのを目撃し、「皇軍の大砲は、非常に優れている!」と叫んだ。その言葉を聞いた日本軍の幹部は大喜びし、胥金城に弾の込め方や引き金の引き方まで説明した。後に胥金城が司令部に戻ると、兵士たちは旅団長が日本軍の兵営に潜入し、無事に帰還したことを聞き、感嘆した。
その後、日本軍の報復により、胥金城は部隊を率いて如皋に撤退せざるを得なくなった。日本軍を攻撃するため、胥金城は連隊全体から100人の兵士を選抜し、大刀隊を編成。数ヶ月間、胥金城自ら大刀隊を訓練し、戦闘力を大幅に向上させた。ある朝、50人以上の日本軍特殊部隊が胥金城の部隊を奇襲しようとしたが、哨兵に発見された。100人の大刀隊員は大刀を手に取り、日本兵を包囲。日本兵は慌てて銃弾を抜き、大刀隊員と白兵戦を展開。大刀隊員は素人ではなく、大刀を振りかざし、怒号を上げながら敵の頭に斬りかかった。一時、殺気と怒号が充満し、10数分後、50人以上の日本兵は全滅。しかし、大刀隊も70人以上の戦士が戦死した。
戦後、胥金城は地面に倒れている烈士たちを見つめ、悲痛な面持ちでしばらく黙っていた。そして、烈士たちの追悼会を開き、彼らの遺体を戦った地に埋葬するよう命じた。当時、粟裕は胥金城を非常に高く評価しており、何度も降伏を勧めたが、胥金城は常に懸念を抱き同意しなかった。
その後間もなく、野三旅の番号は「国民党蘇北挺進第七縦隊」に変更された。張星柄と胥金城の間の矛盾は激化の一途を辿り、張星柄は胥金城の部隊と新四軍聯抗部隊の間に連隊を配置し、両者の連絡を遮断。さらに、胥金城の第四連隊を自身の防衛地区に移動させ、胥金城を「裸の司令官」にしようと企んだ。胥金城は積極的に新四軍聯抗部隊と連絡を取り、張星柄と全面対決。1943年、張星柄は日本軍と協力して胥金城の部隊を包囲攻撃。胥金城の部隊は寡兵で衆に敵わず、甚大な被害を受けた。胥金城は新四軍聯抗司令の黄逸峰と連絡を取り、その後700人を率いて新四軍の防衛地区に突入。間もなく部隊は蘇中二分区特務一団に改編され、後に新四軍新編第七縦隊に編入。胥金城は引き続き司令官を務めた。
特筆すべきは、1945年に胥金城が第七縦隊を指揮し、興化県城を攻略、日本軍と偽軍5000人以上を殲滅し、日本軍の偽師長劉湘図を生け捕りにしたことだ。建国後、胥金城は華東海軍舟山基地海岸砲兵団団長、山西省軍区顧問などを歴任し、大校の軍銜を授与された。