許褚は三国時代の曹操配下の猛将で、曹操から「わが樊噲」と称され、軍中では畏敬の念を込めて「虎痴」と呼ばれていました。典韋の死後、曹操の警護という重要な任務を担い、その活躍ぶりは目覚ましいものでした。『三国志』によれば、馬超が曹操を奇襲しようとした際、「許褚は目をむいて睨みつけ、馬超は動けなかった」とあり、彼の勇猛さがうかがえます。しかし、これほどの勇将の息子が、なぜ鍾会によって処刑され、誰も助けようとしなかったのでしょうか?
前述の通り、許褚は曹操に従って転戦し、数々の功績を挙げました。その武勇から兵士たちの尊敬を集め、曹魏において高い地位を築き、「中堅将軍」に封じられました。曹操の死後、「号泣して血を吐いた」とあり、主従の絆の深さがうかがえます。曹丕は彼の功績に感謝し、「万歳亭侯に進封し、武衛将軍に昇進させ、中軍宿衛禁兵を統括させた」のです。
魏の明帝、曹叡が即位すると、許褚に「進牟郷侯を進封し、邑七百戸、子爵一人に関内侯を賜った」とあります。許褚は三朝に仕えた老臣として、手厚い待遇を受け、高い地位にあったことがわかります。しかし、「虎父犬子なし」と言われるように、許褚のような「虎父」を持つ許儀は、父親の武勇を受け継ぐことはなく、景元4年(263年)の曹魏による蜀への大規模な侵攻の際、彼はまだ小さな牙門将に過ぎませんでした。
景元3年(262年)、権力を握っていた司馬昭は「蜀の大将である姜維がたびたび国境を侵略しており、蜀は国が小さく民が疲弊し、資力も尽きかけていると判断し、大軍を率いて蜀を攻略しようとした」のです。蜀漢がすでに風前の灯火であり、姜維が頻繁に国境を侵略し、悩まされていたため、数十万の大軍を派遣し、一気に蜀漢を平定しようとしました。
その中で、「鄧艾、諸葛緒はそれぞれ三万余りの軍を率い、艾は甘松、沓中で姜維を牽制し、緒は武街、橋頭で姜維の帰路を断つ。鍾会は十余万の兵を率い、斜谷、駱谷から侵入した」とあります。つまり、鄧艾と諸葛緒の合計六万余りの軍は補助的な役割で、鍾会が率いる十万の大軍が蜀攻略の主力だったのです。
一年後の秋、征蜀軍は益州に向けて進軍を開始しました。古来より蜀道は険しく、鍾会もそれを承知していたため、当時牙門将であった許儀を先鋒として派遣し、大軍が通過できるように道を修復し、橋を架け直させました。『三国志』には「まず牙門将の許儀に道を整備させ、鍾会は後から進んだが、橋が壊れており、馬の足がはまり、そこで許儀を斬った」と記されています。
鍾会が馬に乗って許儀が修繕した橋を渡っていると、橋面が馬の蹄で踏み抜かれてしまいました。激怒した鍾会は、許褚が曹魏に貢献したことを全く顧みず、その場で許儀を処刑して見せしめにしました。そのため、「諸軍はこれを聞いて、震え上がった」のです。前述の通り、許褚は兵士たちから深く愛されており、その息子である許儀も軍中で多少なりとも名が知られていました。彼が橋をきちんと修繕しなかったという理由で処刑されたため、兵士たちは衝撃を受け、恐怖を感じたのです。
『三国演義』では、さらに生き生きと描写されています。原文には「鍾会は許儀を幕舎に呼び寄せ、責めて言った。『私が今しがた橋にさしかかった時、馬の蹄がはまり、危うく橋から落ちるところだった……そなたは軍令に背いたので、軍法に従って処罰する!』左右に命じて引きずり出し、斬首させた。諸将が告げて言った。『その父、許褚は朝廷に功績があるので、都督、お許しください。』鍾会は怒って言った。『軍法が明らかでなければ、どうして衆を率いることができるか?』ついに斬首して見せしめにした。諸将は皆、驚愕した」とあります。
『三国演義』の記述によれば、鍾会が許儀を斬首したのは、彼が先鋒としての義務をきちんと果たさず、軍法に違反したためです。軍法を徹底させるため、鍾会は父親の功績を全く顧みず、平等に許儀を軍法に照らして処罰し、見事に効果を上げ、軍隊は軍法を犯すことを恐れるようになったのです。こうしてみると、鍾会が許儀を斬った行為は、諸葛亮が馬謖を斬ったのと同じように、軍法の地位を明確にし、兵士たちをより良く統率するためだったと言えるでしょう。