中国の伝説に登場する「龍」。生物というより、高貴な象徴としての図像信仰に近い存在です。古代封建社会では皇帝のみが「龍」を名乗り、龍の意匠を使うことが許されました。しかし、今回ご紹介するのは、逃避行中の母親が担いだ籠の中に、道士が”龍”を見出すという、驚くべき物語です。
舞台は五代十国時代。唐朝末期の混乱期、各地で勢力が割拠し、戦国時代さながらの争いが繰り広げられました。その結果、苦しんだのは常に民衆でした。
各地で飢饉が発生し、人々は生きるために故郷を離れ、食を求めて彷徨いました。そんな逃避行の列に、杜氏という女性がいました。彼女は慈愛に満ちた母親で、どんな苦境にあっても二人の息子を見捨てることなく、天秤棒で担いで逃げていたのです。
杜氏が息子たちを担いで南へ向かっていると、突然、一人の道士が立ちふさがりました。道士は籠の中の息子たちをじっと見つめ、杜氏は恐怖を感じました。男手のない彼女にとって、道士が子供を奪いに来たのではないかという疑念がよぎったのです。飢饉の際には「子を交換して食べる」という悲惨な状況も起こりうる時代でした。道士が子供たちに何か企んでいるのではないかと、彼女は不安に駆られました。
道士はしばらく子供たちを見つめた後、ついに口を開きました。「お前が担いでいるのは、二匹の龍だ!」杜氏は道士の言葉の意味が分からず、「何を言っているんだ」と呟き、再び息子たちを担いで歩き出しました。道士はそれ以上追いかけることなく、「今は天子なき世と言うなかれ、天子を担いで歩む者あり」と歌い始めました。
ここまで読んだ方は、もうお気づきかもしれません。この二人の子供こそ、後の宋の太祖・趙匡胤と、太宗・趙光義兄弟だったのです。
乾祐元年(948年)、趙匡胤は後漢の枢密使・郭威の配下となり、数々の戦功を立てて郭威の重用を受けました。後に兵権を掌握した趙匡胤は、「陳橋の変」を起こして自ら皇帝となり、荊・湖を突破口に南下し、天下を平定して統一王朝・宋を築き上げました。
趙匡胤がなぜ弟の趙光義に皇位を譲ったのか。それは、母親である杜太后の遺言に遡ります。杜太后は病床で趙匡胤に、「お前が陳橋の変で帝位を簒奪できたのは、世宗・柴栄が幼い息子・柴宗訓に皇位を譲ったからだ。もしお前も同じことをすれば、宋の天下は危うくなるだろう。だから、皇位は弟の趙光義に譲りなさい」と告げました。
趙匡胤は孝行息子であり、杜太后の遺言に背くことはできませんでした。そのため、趙匡胤に息子がいたにもかかわらず、皇位は弟の趙光義に譲られたのです。
公元976年11月14日、50歳の趙匡胤が崩御。「金匱の盟」に従い、趙光義は兄の帝位を継承し、太宗となりました。かつて道士が口にした言葉が現実となり、杜太后が籠に担いでいた二人の子供は、いずれも真の天子となったのです。